筆のかたみ
書きおくもかたみとなれや筆のあと我はいづくの土となるらむ
この歌は、16世紀後半から17世紀前半にかけて、観音巡礼などで訪れた人々が、全国各地の仏堂の壁に書きつけた落書きの歌である。研究人生の途中から仏堂の壁に書き付けられた中近世の落書きの調査研究を始めた私は、山形、新潟、高知など、各地の仏堂にまったく同じ歌がいくつも書かれていることに気づいた。さらに岩手や鹿児島などにも類似の歌の存在が確認され、この歌が近世のある時期、全国に広く知られていた歌であることがわかった(三上喜孝『落書きに歴史を読む』吉川弘文館、2014年)。だが不思議なことに、『万葉集』とか『百人一首』などに載っているような有名な歌ではなく、作者が誰ともわからない歌なのである。歌集にも登場しないこの無名の歌 -この歌を「かたみの歌」と呼ぼう- が、なぜこの100年の間に各地に広まっていったのか。
同じような広まりを感じさせる歌に、古代の手習い歌である「難波津の歌」というのがある。『古今和歌集』仮名序に、紀貫之が「手習ふ人のはじめにもしける」と紹介した歌が、「難波津に咲くやこの花冬ごもりいまは春べと咲くやこの花」である。この歌が、8世紀初頭に再建された法隆寺の五重塔の、おそらく工人が書いたと思われる落書きの中にあったことは有名だが、ほかにも、平城宮をはじめとして、徳島県観音寺遺跡など、各地から出土する木簡に、この歌が書き付けられている例がある。
「難波津の歌」は手習いの歌であるからこそ、各地にまたたく間に広まっていったのであった。おりしも「難波津の歌」の手習いや落書きが確認される7世紀後半から8世紀前半は、日本列島において文字による支配が進められた時期である。文字を必死に学ぼうとした人々がこぞって、この手習い歌を暗唱し、あらゆるところに書き付けていったことは想像に難くない。たまたま『古今和歌集』仮名序に「手習いの歌」として紹介されているものの、この歌もまた、本来は歌集にも収録されない無名の歌であった。
とすれば、冒頭に掲げた「かたみの歌」も、観音巡礼をする人々にとっての手習い歌だったのではあるまいか。16世紀後半になると観音巡礼は大衆化するが、巡礼者たちは必ずしも文字に習熟している人たちばかりではなかった。人々は巡礼の証を書きとどめるために、必死で手習い歌を学び、それを仏堂に書き付けていったのである。「自分の書いた筆の跡が、形見となってほしい」という歌の内容とも相俟って、巡礼を契機に文字と向き合うことになる人々の間で、またたく間にこの歌が広まっていったのではないだろうか。手習い歌の広まりは、文字を学ぼうとする人々の衝動の大きさそのものを示しているともいえる。
私は学生時代、平安時代の『今昔物語』をモチーフとした福永武彦の長編小説『風のかたみ』を耽読した。その小説のいちばん最後の場面で歌われる歌、
跡もなき波行くふねにあらねども風ぞむかしのかたみなりける
は、藤原定家の『拾遺愚草』の、
跡もなき波行くふねにあらねども風をしるべにもの思ふころ
の下の句を書き換えたものである(野口武彦「解説」『風のかたみ』新潮文庫版)。小説のタイトルも、この歌からとったのであろう。私が仏堂の壁に書かれた「かたみとなれや筆のあと」の歌を発見したとき、真っ先に浮かんだのが福永が改作したこの歌であった。「かたみ」という言葉に込められた当時の人々の思いを必死に読み取ろうとしたのは、学生時代のこの読書体験が影響を与えているのかも知れない。
(『桐墨』6号、2015年、一部改変)
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