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読書メモ·平野紗季子『ショートケーキは背中から』(新潮社、2024年)

読後感ならぬ食後感。一読して、まるで読書の感想を書くように食事の感想を書いていると感じた。読書と食事は類似した行為なのではないかという仮説が頭をもたげてきた。
若い友人から平野紗季子さんの本を薦められた。初めて聞くお名前だなと思っていたが、待てよ、もしかして武田砂鉄さんと対談したことがあるのではないかと思い探してみると、たしかに今から3年前(2021年)のTBSラジオ「アシタノカレッジ」で2人は対談していた。毎週欠かさず聴いていたはずなのにどんなことを話していたのか記憶にない。私の記憶力もまったく当てにならない。
あらためてこの対談を聴き直して驚愕した。対談のはじめの方で砂鉄さんは「ショートケーキは背中から食べる」という平野さんの言葉を拾っていたからである。何気なく拾った言葉が3年後に本のタイトルになるとは単なる偶然だろうか?妄想をたくましくさせると、元編集者としての砂鉄さんの「嗅覚」が、この言葉の持つ力強さを引き出し、結果的に本のタイトルにつながったのではないか?

自分の好きな食べ物のことを全力で応援している。私にとって食べたことのない料理も数多く含まれているが、その料理をめぐる表現は普遍的で、自分の食事体験の中にも重ね合わせることができる。

「お弁当の何が好きって冷めてるところだ。冷めてるってことは食べる時間が自分の側にあるってこと。(中略)だから行ったり来たり、味の散歩が自分の歩幅で自由にできる。読むように食べる。食べ深められる。お弁当って読書に似ている」(「おみくじ何回引いても大吉味」32頁)

…ほら、やっぱり読書する行為と食べる行為は似ているのだ。とくに「お弁当」にその傾向が顕著なのである。

「子どもの頃から、食べ物が消え物であることに抗いたい人間だった。食日記をつけはじめたのも、食べたら消えてしまう対象をなんとか残しておきたくて、メモをするようになったのがはじまりだ。私はものを食べるとき、実態を胃袋に落としつつ、別のルートでその食べ物を、頭の中の巨大な保管庫へ運搬する」(「味の保管庫」82頁)

食日記はさながら読書日記だ。読後感を忘れないように頭の中の巨大な保管庫へ運搬するために読書日記を書くことと似ている。

「脳内では、梅干しに始まり、佃煮、明太子、果ては焼き肉に至るまで、かつてご飯に乗ったことのあるあらゆるおかずを薙ぎ倒し、エゴマがぶっちぎりの優勝を果たす」(「エゴマの香る街」101頁)

…これは私が韓国留学中に体験したこととまったく同じ。その通り!と思わず膝を打つ。

かくも小気味よいエッセイが続く。エッセイの醸し出す雰囲気は、たとえるなら岸本佐知子さんの「風味」を連想させる。もっともこれはあくまでも私の「味覚」にすぎないので、異論は認める。

コロナ禍で街の飲食店が店じまいするところが増えてしまった。もう一度そのお店で食べてみたいと思っても、もうその店でしか味わえない料理は存在しない。街の書店も店じまいするところが増えてしまった。本であればインターネットで注文すればよいではないかと言われるかも知れないが、その書店で本棚をブラブラしながら本を見つけた時の嬉しい思い出は、これ以上増えることはない。

この本の中で好きなエッセイの一つは、「レジ横の細々としたおやつ」である。味のレポートというよりも、中学時代の思い出。コンビニのおじさんとの何気ないエピソードが胸を打つ。さながらTBSラジオ「東京ポッド許可局」のコーナー「忘れ得ぬ人々」だ。

「未だにそのコンビニのレジ横に置かれた細々としたおやつと目が合うと、ブンさんのことを思い出す。あのとき手渡してくれた小さな善意も思い出す。今更お礼を言うことはできないが、家族でも友だちでもない他者へ、すれ違っていくことしかできないだれかに対して、チロルチョコ一粒ほどのささやかな善意を持って接することが、今の私にできることなのだと思っている」(153頁)

何度でも味わいたいエッセイである。


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