あとで読む・第10回・フランツ・カフカ『ミレナへの手紙』(池内紀訳)(白水社、2013年)

いまから10年近く前の話である。奈良市の中でも古い町並みを残す「奈良町」に、友人の弟さんが経営するブックカフェがあった。店名を「フランツ・カフカ」といった。あるときその友人から、弟のカフェがどうやら村上春樹のホームページで紹介されたらしいと聞いた。教えられたとおりにそのホームページにたどり着くと、27歳女性の大学院生と名乗る読者が村上春樹に質問をして、それに対して村上春樹が答えるという内容のものだった。
「数年前、ひどくぼんやりとした沼の底にいたのですが、そのときに村上さんの本に出会いました」で始まるその大学院生の文章は、ひどく不思議なもので、私には意味のとりかねる内容のものだったのだが、その最後に彼女は、
「奈良町に『フランツ・カフカ』の名前をつけたカフェがあるのですが、私の代わりに行ってみてくれませんか?」
と、村上春樹にお願いしていたのだった。これに対して村上春樹は、
「わかりました。今度その町に行ったら、そのカフェに入ってみますね。そしてお昼の「ザムザ定食」を食べてみます」
と答えたのだった。
私は妻にこのホームページの内容を話した。
「この27歳女性の大学院生って、どんな人なんだろうね。最初に書いてある『数年前、ひどくぼんやりとした沼の底にいたのですが』というのは、どういう意味なのだろう」と私は妻に訊ねた。
「さあね。それにしても村上春樹は大変ね。だって、どんな質問に対しても、村上春樹は村上春樹らしい答えをひねり出さなければならないんだもの」と妻は言った。
「なるほど、そういうものかね」と私は言った。
私は、奈良への出張の折、この「フランツ・カフカ」をたずねることにした。ザムザ定食を注文しようとしたが、そんな名前の定食はもちろんなかった。
ブックカフェというくらいだから、お店の壁に設置された本棚には数多くの本が並べられていたが、カフカの作品は見あたらなかった。
(なぜ店名を「フランツ・カフカ」にしたのだろう?)
会計のおりに、「私はあなたの兄の友人です」と自己紹介したが、「そうですか」と言われたまま話が続かず、すべてが謎のままお店を出た。
その翌年、出張の折に再びそのカフェを訪れると、メニューに「ザムザ定食」が増えていた。そこには「ザムザ定食 Gregor Samsa Lunch フランツ・カフカ「変身」の主人公であるグレゴール・ザムザ氏と、日本の著名な小説家M・H氏に捧ぐ」とメッセージが添えられていた。M・H氏とはもちろん村上春樹のことである。村上春樹が自身のホームページでこのカフェに言及した折に、戯れに書いた「ザムザ定食」を、店主がメニューに組み込んだのである。店主も村上春樹が来るのを待っていたのだろうか。
「フランツ・カフカ」はそれからほどなくして店じまいしてしまった。村上春樹がはたしてその店を訪れたのかどうかはわからない。
私に残されたのは、「フランツ・カフカ」という名前である。むろん「変身」はむかしに読んでいたが、私の中でカフカはそれ以上の存在になり、少しずつ読み進めたいと思いながら現在に至る。

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