あとで読む・第19回・福永武彦『ボードレールの世界』(講談社文芸文庫、1989年)
映画作家の大林宣彦さんの映画「麗猫伝説」(桂千穂脚本、1983年)は、もともと日本テレビの「火曜サスペンス劇場」枠で放映されたテレビドラマなのだが、一部のファンの間ではカルト的人気を誇る映像作品で、DVD化もされている。
この映画の中で、芸能ルポライター(峰岸徹)が、引退した老映画監督(薩谷和夫)のもとを訪れて、ある女優についての思い出話をするという場面がある。なかなか味わい深い場面なのだが、その中で、こんなやりとりがある。
「『すべて我らが見たるもの、また見たりと思いしものは、夢の中の夢にほかならず』…」
「ボーレールですな!」
「ハッハッハッ!」
フランスの詩人、シャルル・ボードレール(Charles-Pierre Baudelaire)の作だとするこの詩に惹かれ、私はこの詩の出典が知りたくて、ボードレールの詩集をめくったりしたのだが、該当する詩が見つからない。
この疑問を親しい人たちに投げかけたところ、以前勤めていた職場の同僚が、これは、エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)の「夢の中の夢(A dream within a dream)」という詩の一節ではないかと指摘した。
All that we see or seem Is but a dream within a dream.
たしかにこれを訳すと、「すべて我らが見たるもの、また見たりと思いしものは、夢の中の夢にほかならず」となる。
つまりこれをボードレールの詩の一節だとする「麗猫伝説」のセリフは誤りで、ほんとうはポーの詩だったのである。いったいどうしてこんな誤りをしてしまったのか?
これに解答を与えてくれたのが、高校時代の親友の小林君だった。
「貴君も既にご存知でしたら失礼しますが、ボードレールとポーは切っても切れない関係に有ります。ボードレールはポーの文章を読んで、これぞ自分が求めていた世界だと感激し、フランス語に翻訳しています。それは今でも名訳として通っており、19世紀末のヨーロッパにはボードレールを通してポーは広まり、ついにはアメリカで再評価するに至ったのです。そういう意味では、ポーの言葉をボードレールの言葉として語るのは、あながち間違えとは言えないような気がします。私も大学時代、フランス語が出来ないのに血迷って、フランス語原点購読という授業を取って、ボードレール訳のポーを読まされました。何でフランス語でポーなのか?と思っていたのですが、前述の理由を知り、なるほどと思った次第です」
かくして友人たちの連携により、この詩はポーの詩をボードレールが訳したために、ボードレールの詩として認識された可能性があることがわかった。わかったことはもう一つ、私が無知だったということである。まずは私自身がボードレールについてちゃんと知らなければならない。
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