あとで読む・第59回・松本創編著『大阪・関西万博「失敗」の本質』(ちくま新書、2024年)
昨年の夏ごろから、2025年開催予定の大阪・関西万博の行く末について並々ならぬ関心を持っている。万博とは「万国博覧会」であり、しかも常設ではなく会期の決まっている「博覧会」ととらえると、博物館や美術館の「企画展示」になぞらえることができる。
全国の博物館美術館の学芸員さんは、この段階での大阪・関西万博のお粗末な準備状況に、肝を冷やしているのではないだろうか。しかも世界に恥ずかしくないレベルの博覧会にしなければならないのである。少なくとも私が当事者だったらと思うと、恐ろしくて夜も眠れない。
無尽蔵に膨らむ予算とか、ひどく遅れている作業工程など、もう完全なホラーである。全国の博物館美術館では絶対に許されないことが、万博などの国家事業になるとなぜか許される。
それよりも不思議なのは、プロデューサーと呼ばれる人々である。聞くところによるとプロデューサーは10人くらいいて、その中にはパビリオン1館分を任されている人が何人もいるようである。パビリオンを任されるということは、企画展示を一つ任されるのに等しいのではないかとイメージする。
もしそうだとしたら、準備は大変である。他の仕事をすべて断って、その仕事に専念しなければならない。準備したり交渉したり配慮したり、すべきことがたくさんあるからである。しかし偏見かもしれないが、どうもそういうプロデューサーがいるようには思えない。いかに能力の優れた人ばかりを集めたとしても、「片手間感」がどうしても拭えないのである。しかしくり返し言うが、片手間では絶対にできない仕事のはずである。
万博には、高邁な理想を掲げるテーマが必要だった。1970年の万博の時もおそらくそうだったろう。今回は「いのち輝く未来社会のデザイン」というのがテーマだそうだ。メッセージがふわっとしている。
なりふりかまわず来場者を集めることを最優先するとなれば、世間で人気のコンテンツを貪欲に取り入れることが必要だ。そうでないと人々の目を引かない。でもそうすると、当初のテーマはいつの間にか置き去りになり、人目を引くコンテンツばかりが幅をきかせてしまうかもしれず、これもまた恐ろしい。
私にとっては、このたびの万博はホラーなのだ。もちろん、いまから万博を楽しみにしている人もたくさんいるので、そこに水を差すようなことを書くのは実に心苦しい。私が不安に思っていることが杞憂に終わり、プロデューサーたちの高邁な理想に基づいたパビリオンが多くの人の心を動かすことを願ってやまない。