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読書メモ・野上照代、ウラジミール・ヴァシーリエフ、笹井隆男『黒澤明 樹海の迷宮 映画「デルス・ウザーラ」1971~1975』(小学館、2015年)

野上照代、ウラジミール・ヴァシーリエフ、笹井隆男『黒澤明 樹海の迷宮 映画「デルス・ウザーラ」1971~1975』(小学館、2015年)は、映画監督・黒澤明に関する衝撃の一冊である。
映画「デルス・ウザーラ」は、1975年に公開された、黒澤明監督によるソ連・日本の合作映画である。黒澤明にとっては通算25本目の映画である。
このころの黒澤明が、まったくの不遇の時期であったことは有名である。23本目の映画「赤ひげ」(1965)以降、ハリウッド進出をめざすが、ことごとく失敗し、果ては自殺未遂にまで追い詰められる。もはや日本で映画を撮ることが難しいのではないかという矢先に、ソ連から映画製作の依頼が来て、ソ連で映画を撮ることになる。それが「デルス・ウザーラ」である。黒澤はこの映画で、映画監督として起死回生をはかったのである。
この本は、この映画をめぐる詳細な記録である。圧巻は、詳細な「撮影日誌」である。当時、演出助手をしていた野上照代が実に詳細な撮影日誌を書き記していた。それに加え、このときのさまざまな手記やインタビューを加えて笹井隆男が再構成したものが、この本に収められている。だが主たる出典は、野上照代の日記であり、この撮影日誌は、さながら「黒澤明観察日記」でもある。
野上照代は、黒澤映画を知る人ならば、誰でも知っている。1950年、黒澤明監督の『羅生門』にスクリプター(記録係)として参加したことをきっかけに、1951年、東宝へ移り『生きる』以降の全黒澤映画に記録・編集・制作助手として参加した。
いわば黒澤明の「片腕」であり、黒澤明についてすべて知り尽くしている人である。
この「撮影日誌」を読むと、愕然とする。
この日誌にあらわれる黒澤明は、わがままで横暴で、人に当たり散らし、麻雀ばかりしていて、深酒をして酩酊し、二日酔いになり、前言をすぐに翻し、それでも自分の誤りを認めようとせず、そうかと思えば頭を抱えてプレッシャーにおびえている。イライラがつのり、DVに近いようなことまでしている。
情緒不安定、などという生やさしいものではない。完全な人格破綻者なのである。
実際、まわりのスタッフやキャストたちも、黒澤明の横暴さに呆れ、ときに強烈な反感を抱き、対立する。
日誌を読み進めていくと、
(この映画、ほんとうに完成するのだろうか?完成したとしても、いい映画になるのだろうか?)
と、疑わしさまで感じてしまうのである。
黒澤明の人格破綻ぶりは、私の想像をはるかに超えるものであった。
野上照代は、それを、事細かに記している。
それもそのはずである。いちばんの被害者は、野上照代なのだ。
黒澤が野上を全面的に信頼していることは、日誌からもよくわかる。野上は、黒澤の横暴や我が儘を、何とかなだめつつ、周囲への被害を最小限度に抑えるために、ありとあらゆる努力をしている。
黒澤が気持ちよく仕事できるためにはどうすればよいかを、常に最優先に考えている。
黒澤と野上の絆は、尋常ではない。黒澤は、野上を全面的に信頼し、だからこそ野上に対して、最上級の我が儘を言い、愚痴をこぼすのである。
それを受けとめなければならない野上は、たまったものではない。
たとえば、1974年11月11日の日誌。
「『この映画が失敗したら、俺は10億からの借金を背負い込むんだ』と愚痴をこぼす黒澤を、『そんな悪い想像はいくらでもできますが、何の役にも立ちませんからやめてください』と野上が諭す」
黒澤に対してこんなことまで野上が諭さなければならないのだから、黒澤明って、本当に厄介な「かまってちゃん」である。
この本を読んでわかることは、
「黒澤明もすごいが、黒澤明にいい映画を作らせるために人生を捧げている野上照代は、もっとすごい」
ということである。
じゃあ、黒澤明は、たんなる人格破綻者だったのか?
この本の中で、池澤夏樹が一文を寄せている。
「黒澤明の横暴、我が儘、気まぐれ、酔っ払いぶりを見ていて、彼自身が内なる何かに突き動かされていたのではないかと考えた。これは比喩ではなく、ほんとうに彼の中に魔物が住み着いて、そいつが彼に無理難題を押しつけ、脅し、揺り動かしていた。その彼の内なる乱闘が外からはあの横暴と映る」
つまり、凡人にはない魔物が、天才の中には住み着いているというのである。
黒澤明もまた、内側からあふれ出す映画のイメージを抑えることができず、自分をコントロールすることができなくなってしまったのではないだろうか。
それが池澤夏樹のいう、「魔物」なのだろう。
ちなみに「デルス・ウザーラ」は、1975年のアカデミー賞外国語映画賞を受賞している。
黒澤明は、この映画で完全復活をとげたのである。


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