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いつか観た映画·小泉堯史監督『雨あがる』(1999年公開)


山本周五郎の短編小説を黒澤明監督が脚本化したこの作品は、黒澤監督の手で映画化されることなく、1998年、黒澤監督はこの世を去る。黒澤監督の弟子である小泉堯史監督は、黒澤監督の遺志を継ぎ、この脚本を映画化し、没後1年経った1999年に完成、公開された。
武芸にすぐれながらも、人の良さが災いして仕官がかなわない伊兵衛(寺尾聰)は、妻のたよ(宮崎美子)とともに、旅をしながら浪人生活を送っていた。ある旅先で、伊兵衛の腕の良さを知った藩の城主(三船史郎)は、伊兵衛に藩の剣術指南番の話をもちかけた。彼の卓抜した武芸の腕前と誠実さは、懐の深い城主の気に入るところとなるが、家老たちに疎んじられ、ささいなことを理由に、剣術指南番の話がご破算になってしまう。結局、仕官はかなわず、伊兵衛とその妻はその宿場町を出て、旅に出るのである。
最初観たときは、なんと地味な映画だろう、と思ったが、いま見なおしてみると、これこそ上岡龍太郎師匠がよく言っていた、「成功の尊さ」ではなく、「努力の尊さ」を体現した作品ではあるまいか。努力がむくわれることなく、最終的には失敗するからである。だがその伊兵衛の姿は、誰よりも気高く、誇り高い。
偉人伝とは対極にある世界が、私が好きな山本周五郎の小説にあることに、今さらながら気づいたのである。
だが黒澤明監督の脚本には、ひとつ大きな問題があった。
映画の最後で、伊兵衛をクビにしたことの誤りに気づいた城主が、馬を走らせて伊兵衛夫婦のもとに行き、藩に戻るように頼みこむという場面を、黒澤監督は脚本段階で構想していた。つまり、みごと伊兵衛は仕官がかなって成功するという、原作にはないエンディングを構想していたのである。
実際、この場面の撮影も行われたが、最終的に小泉監督の判断により、この部分はカットになった。つまり、原作に近いエンディングにもどしたのである。
小泉監督のこの判断は、正しかったと思う。
なにより山本周五郎が描きたかったのは、仕官がかなわなくとも、つまり立身出世しなくとも、誠実に、誇り高く生きていこうとする伊兵衛の姿にあったのではないだろうか。これこそが、山本周五郎のヒューマニズム文学の真髄である。だからこの作品は、むしろハッピーエンドにしてはならないのである。
それにしても、山本周五郎の真髄を知る黒澤明監督が、なぜ最後をハッピーエンドとして終わらせたかったのだろうか。謎である。

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