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回想・日東寺書店

島田潤一郎『あしたから古本屋』(ちくま文庫、2022年、初出2014年)には、ひとり出版社・夏葉社が刊行した『本屋図鑑』についての取材エピソードが書かれている。ひとり出版社を切り盛りする著者が、北海道の利尻島にある「本庫屋書店」に訪れるくだりには、こんなことが書いてある。

「きっと、利尻島で育ったすべての子どもは、本庫屋書店にたいして、深い思い出があるのだろう。そして、きっと、「ほんこや」なんて呼び捨てでいって、島を出てからも、「あの本は小学生のころ、ほんこやで買ったんだよ」「ほんこやのあそこの棚にあれがあったよね」なんて、思い出話を語るのだろう。ほんこやで好きな女の子とばったり会うこともあっただろうし、ほんこやで大人たちが小説や文庫を真剣に選ぶ姿も見たのだろう。
すべては想像だけれど、町の本屋さんとは、そういうものだと思う。
ある日、子どもは、マンガを一冊買えるお金で、文庫本の小説を買う。
それは、とてもわかりやすい大人への階段だ。
ぼくは、町の本屋さんのそうした日常を、ぜんぶ、この目で見たいのである。
北の果てから、南の果てまで。
いまのうちに、どうしても見ておきたいのである」(256頁)

思わず涙が出てしまうような文章だ。私にもそんな思い出の本屋さんがある。

母の実家は、千葉県神崎町(こうざきまち)というところだ。近くには利根川が流れていて、そこを渡ると茨城県である。「ちばらぎ」という言葉がいつ定着したのかはわからないが、少なくとも私が小学生のころにはまだ聞いたことがなかった。この神崎町に、日東寺書店という書店があった。町に一つしかない小さな本屋さんである。

小中学生のころは、8月のお盆と正月の2回、必ず母の実家に泊まりがけで行った。母のきょうだいが集まり、その子どもたち、つまり私のいとこたちも集まったので、決して広くないその家がにわかに賑やかになった。
しかしみんなでやることといえばお墓参りくらいで、大人は四方山話を楽しんでいるが、子どもたちは基本的にはすることがない。ほかのいとこたちは釣りに出かけたりしたが、当時小学生だった私は母の実家から歩いて5分くらいのところにある、利根川のほとりの日東寺書店に通ったのだった。
狭い書店だった。マンガがあったり、文庫本があったり、雑誌があったり、つまり典型的な「町の本屋さん」である。いま思うとおそらく近隣の学校に教科書を納品したりすることで主たる収入を得ていたのではないかと推察する。私は母の実家に連れていかれるたびに、日東寺書店で長い時間を過ごした。
もちろん、私が住んでいた東京郊外の方が大きい書店はいくつもあったのだが、私はこの日東寺書店が好きだった。

後年、私が以前勤めていた職場で、何かの折にある同僚と話をしたときに、その同僚が利根川をはさんだ茨城県の東村だったか桜川村だったかの出身であることがわかった。私よりも少し年齢が上の同僚である。
私の母の実家がその対岸の千葉県神崎町であることを告げると、
「神崎(こうざき)かぁ。子どものころ、利根川を越えて、その町の本屋さんまでよく通ったなぁ」
「日東寺書店ですか?」
「そう!日東寺書店!うちの村には本屋さんがなかったからねえ。一番近い本屋さんが日東寺書店だったんだよ」
あの小さな本屋さんは、じつは神崎町だけでなく、あの川の流域の町々の「本文化」を支えていたんだ、ということが、あらためて分かった。
私が高校生になると、定期的に母の実家に訪れるのは両親だけになり、私はもう母の実家に訪れることがなくなった。
神崎の家を守ってきた祖母は2010年に99歳で大往生を遂げた。3回忌の法事のときだったか、久しぶりに日東寺書店の店の前を通ったらシャッターが閉まっていた。どうやら僕がこの町を訪れなくなってからしばらくして店じまいしてしまったらしい。

私の机のペン立てには、「日東寺書店」の名が入った使いかけの鉛筆がいまも1本残っている。おそらく小学生の頃、日東寺書店に行った時にお店の主人から名入りの鉛筆をもらったものだろう。使いかけのままになっているのは、鉛筆を削ることをくり返すと「日東寺書店」の名前が消えてしまうのがイヤだから、ある時点から使わなくなったものと思われる。引っ越しをくり返してもその1本はずっと手元にある。「日東寺書店」の名前の下には電話番号も書かれている。時々、その電話番号にかけてみたくなる衝動に駆られる。

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