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連想読書・岡崎武志編『夕暮れの緑の光 野呂邦暢随筆選』(みすず書房、2010年、新装版2020年)

関口良雄『昔日の客』(夏葉社、2010年、初出1978年)の中に、芥川賞作家の野呂邦暢さんのエピソードがあることを紹介した。古本屋好きの野呂邦暢さんが、関口さんが店主を務める山王書房に通っていたときのことについてのエピソードである。

連想読書・関口良雄『昔日の客』(夏葉社、2010年、初出1978年)|三上喜孝 (note.com)

そういえば、と思い出した。以前、野呂邦暢さんの随筆集を読んだことがある。読んだ、といっても、精読したわけではなく、折にふれてパラパラとめくってたまたま開いた箇所の随筆を読む、という読み方だったのだが、その中にたしか古本屋のエピソードが書いてあったことを記憶していた。その随筆集は、2010年にまとめられたものを2020年に新装復刊されたもので、野呂邦暢さんの味わい深い文体とともに、その装丁も素晴らしくて、書店に並んでいたのを見るや否や買い求めた本である。
さっそく読み返してみたいと思ったのだが、その本は、自宅に乱雑に積んである本の中にあるはずなのに、それが見つからない。折しも仕事が忙しいときで、帰宅してから本を探し出す元気もなかった。
お盆休みに入り、気持ちが楽になったところであらためて探したところ、ようやく見つけ出した。本をめくると、はたして山王書房についての短い随筆が2編、収められていた。
ひとつは、「s書房主人」と題する随筆で、『西日本新聞(夕刊)』1976年5月12日に掲載されたものである。
もうひとつは、「山王書房店主」と題する随筆で、1979年5月7日発行の『週刊読書人』に掲載されたものである。この随筆では、関口さんの随筆集『昔日の客』について言及しており、『昔日の客』についての書評として書かれたといってよいだろう。
さて、『昔日の客』が最初に発行されたのは、1978年10月である。さらにその中の「昔日の客」という野呂邦暢さんとのエピソードが書かれた初出が、1976年6月の『銅羅』30号である。これらを時系列的に並べてみると、

1976年5月12日、野呂邦暢「S書房主人」発表
1976年6月 関口良雄「昔日の客」発表
1978年10月 関口良雄『昔日の客』(随筆集)発表
1979年5月7日 野呂邦暢「山王書房主人」発表

という流れになる。
ここからわかることは、野呂邦暢さんが、関口良雄さんの「昔日の客」の随筆が公表される前に、「S書房主人」という思い出を書いているということである。同じく、関口良雄さんも、野呂邦暢さんの西日本新聞での随筆を知らずに、「昔日の客」のエピソードを書いていた可能性がある。つまり2人は、お互いに書いた随筆を知ることなく、共通の思い出話を書いた、ということになる。
同一の思い出に関して、古本屋の客であり、かつ作家でもあるという視点から書かれた随筆と、古本屋の店主の視点から書かれた随筆が残っているなんて、めちゃくちゃおもしろいではないか!
客である野呂邦暢さんは、若い頃に通っていた山王書房についての記憶が鮮明であるのに対し、店主の関口さんにはまったくその記憶がない。1974年の芥川賞受賞の折に野呂さんからの電話をもらって、そういえば、と関口さんの記憶が徐々に取り戻されていく。そして授賞式のあとに野呂さんは山王書房を訪れて、関口さんとの再会を果たすのである。
そのときの様子を、野呂邦暢「S書房主人」ではこう書いてある。

「先だって私はS書房を訪ねた。あの頃、おかみさんに抱かれていた乳呑児が結納を取り交わしたところだった。土間には見覚えのある水瓶があり、桃の花と連翹が活けてあった」

一方、関口良雄「昔日の客」では、

「『関口さんのお店に行くと、奥さんはよく小さい女の子さんを抱っこしていたけれどもう大きくなられたでしょうね』
『ええ、二十二歳になりました。この三月には嫁に行きます』
『そんなになりましたか』と一寸間をおいて返事をすると、娘の名前を尋ねた。どんな字を書くのですかとも尋ねた」

という野呂さんとの電話のやりとりを記したあと、再会の時の様子を次のように記す。

「(芥川賞授賞式から)二、三日して野呂さん夫妻が店の前に立たれた。その時、私達夫婦は嫁に行く娘の嫁入り道具を運び出していた。野呂さんは、この方が郁子さんですかと尋ねた。
「そうです」と私達は笑って答えた。
娘は祝いの品を頂いた。
野呂さんは、手伝いましょうと言うと、素早く上衣を脱ぎ、次々と荷物を運んで下さった。
小さい車は、すぐいっぱいになった。
なんのもてなしも出来なかったけれど、野呂さんとそれからそれへと話が続いた。
野呂さんの奥さんは、美しい静かな人だった。私達の話のやりとりを終始にこやかに聞いてられた。
話の途中で野呂さんは、何かお土産をと思ったけれど、僕は小説家になったから、僕の小説を先ず関口さんに贈りたいと言って、作品集「海辺の広い庭」を下さった。
その本の見返しには、達筆な墨書きで次のように書いてあった。
『昔日の客より感謝をもって』野呂邦暢」

山王書房店主の関口良雄さんは1978年に59歳で亡くなった。
芥川賞作家の野呂邦暢さんは1980年に42歳で亡くなった。
しかしお互いの随筆に書かれた思い出は、2人の友情とともに残されている。

#夕暮の緑の光

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