いつか観た映画・「チャップリンの独裁者」(1940年公開)
映画「チャップリンの独裁者」(1940年公開)は、チャップリン初の完全トーキー作品であるという。無声映画を通じてしかチャップリンを見ていなかった当時の人々にとっては、衝撃的な映画だったのではないだろうか。とくに最後の演説の場面は、トーキーでしか味わえない屈指の名場面である。
あらためて観て、笑いと涙と風刺が全部詰まっている、紛れもない傑作だと実感した。
「笑い」について言えば、、「動きによる笑い」は、ドリフターズに受け継がれているし、「ドイツ語ふうの演説」は、タモリの「4カ国語麻雀」に受け継がれている。名だたるコメディアンがチャップリンに憧れていた理由が、よくわかる。
「風刺」について言えば、気弱な独裁者、側近たちの浅知恵、苦言を呈する者への冷遇、外交相手に椅子の高さを気にするくだりなど、まるでいまのこの国の首相を風刺しているかのようでもある。
映画評については、僕なんぞの出る幕ではないので、1つだけ、どうでもいいことを書く。
チャップリンは、独裁者ヒンケルと、ユダヤ人の理髪師の一人二役である。映画の中では、独裁者と庶民がチャップリン自身により対比的に描かれるのだが、私が面白いと思ったのは、庶民の代表として描かれている職業が、理髪師だということである。
映画とかドラマの中で、理髪師が庶民の記号的存在として描かれることが、よくあるような気がする。
日本でいえば、「私は貝になりたい」(1958年)。平凡で気弱な理髪師が、アジア・太平洋戦争のBC級戦犯として裁かれ、理不尽にも死刑を宣告されるという物語。
韓国でいえば、ソン・ガンホ主演の映画「大統領の理髪師」(2004年)。パク・チョンヒ大統領の散髪をつとめた理髪師の悲哀を描いた物語。韓国版「フォレスト・ガンプ」である。
圧倒的な権力の前に、なすすべもなく運命を翻弄されてしまう、気弱でまじめな庶民の代表として、理髪師がしばしば登場するのである。そういえば岡本喜八監督の映画『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年)でも、田中邦衛が気弱でまじめな理髪師として登場していたな。
そのルーツは、「チャップリンの独裁者」にあるのではないか、というのが私の仮説。
なぜ、権力者との対比のなかで理髪師が平凡で気弱な庶民の記号として描かれることが多いのか、これはなかなか興味深い問題である。