見出し画像

読書メモ・山田風太郎『戦中派不戦日記』(角川文庫、2010年)

『戦中派不戦日記』は、作家・山田風太郎の代表的な記録文学である。昭和20年(1945)、当時23歳で医大生だった山田青年は、この年に起こった1日1日の出来事を、自分の目線で、克明に記録した。時には冷静に、時には感情を露わにしつつ、日記が書き進められていく。その筆力は、驚嘆に値する。
昭和20年という年に、一青年が何を見、何を感じ、何を記したか。
この年の3月10日には、東京大空襲が起こっている。この時、東京にいた山田青年は、この東京大空襲を目の当たりにしたひとりである。
3月10日の未明に起こった東京大空襲は、東京に壊滅的な被害をもたらした。この時に見た情景を、山田青年は克明に記す。この日のことを記した最後の部分は、この日記の中でもとりわけ印象的な部分である。

「焦げた手ぬぐいを頬かむりした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰を下ろしていた、風が吹いて、しょんぼりした二人に、白い砂塵を吐きかけた。そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで
「ねえ……また、きっといいこともあるよ。……」
と、呟いたのが聞えた。
自分の心をその一瞬、電流のようなものが流れ過ぎた。
数十年の生活を一夜に失った女ではあるまいか。子供でさえ炎に落として来た女ではあるまいか。あの地獄のような阿鼻叫喚を十二時間前に聞いた女ではあるまいか。
それでも彼女は生きている。また、きっといいことがあると、もう信じようとしている。人間は生きてゆく。命の絶えるまで、望みの灯を見つめている。……この細ぼそとした女の声は、人間なるものの「人間の讃歌」であった」

23歳の青年の書く文章は、時に感傷的で、感情的である。この国難にあたって、我々はいかに行動すべきか、今こそ立ち上がるべきではないか、と、学生たちが徹夜で議論をする場面もしばしばみえる。山田青年は、日本の行く末を、時に熱く語るのである。
だが私がこの日記で本当に好きなのは、このような極限の状況に置かれた人たちの魂の叫びよりも、なんでもない日常を描いた部分である。
たとえば、こんなところ。
敗戦の色が濃くなった1945年7月。山田青年が通っていた大学そのものが長野県飯田に疎開していた。山田青年ら学生たちも、飯田に疎開して生活をはじめる。その7月25日の日記の一部。天竜峡までの切符を買いに、飯田駅に行ったときの場面である。

「午後二時、飯田駅にゆく。
上りは駅内に、下りは駅外に、それぞれ四、五十人ずつ並んでいる。一電車毎に二十人分余り切符を売って、すぐに窓口を下ろす。
二十人目の人と二十一人目の人とは、並んだときは一分の差でも、電車は二時間、三時間の差となって現われる。人間世界にはほかにもこんなことがありそうだ。
四人が一人ずつ、二十分余り交互に行列して、あとはベンチに座って待つことにする。僕たちは遠くから、切符切りの少女駅員を鑑賞する。飯田駅随一の美少女だそうで、眼は非常に大きい。肌は蒼味がかって見えるほど白い。笑うとひどくエキゾチックな顔になる。
先発隊が飯田にはじめてついた晩、こんな話があった。Aがいう。「あの切符切りの娘だがね、あれはどうもおかしいよ。駅でぶらぶらしているおれを、じっと見ている。こちらで見ると眼をそらすが、しばらくするとまたそっとおれを眺めている。おれに気があるとしか思えない」するとBが「ばかだなあ、貴様、あれならおれにも妙な眼つきをしていたぜ」すると、おれもおれもという連中が続出して、みな唖然となり、かつ笑い出した。
しかしあの顔は、どうも悲劇的な運命を予告しているように思われる。甚だしく未来の夫に剋される顔だ。―などと遠くから眺めながら、こんなことを考えている僕も馬鹿々々しいが、今の環境もずいぶん馬鹿々々しい。三十分ほどでゆける天竜峡へゆくのに、二時から五時十一分まで、三時間以上も待ったのである」

男子連中が集まって、「あの子、おれと目があったぜ。あれは絶対おれに気があるな」「バカ野郎、目があったのはお前じゃなくて、おれの方だ」などと言い合って妄想をふくらませるのは、今も昔も変わらない。そしてどんな状況に置かれようとも、変わらないのだ。
こうしたさりげない情景まで克明に書き記しているところに、『戦中派不戦日記』の真髄がある、と私は思う。
昭和20年という未曾有の年に生きていた人びとの姿。今という時代が皆目わからなくなってしまった私は、山田青年が記録した昭和20年という時代を通して、今を見つめなおすことにしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?