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オトジェニック・中森明菜「禁句」とYMO「過激な淑女」
2024年の年末にNHK-BSで放送されていた「伝説のコンサート 中森明菜」を見てから、中森明菜さんの歌の数々が耳から離れない。
1991年7月によみうりランドEASTで行われた野外コンサートである。私が大学生の頃だ。ちなみに中森明菜さんがデビューしたのは1982年だから私が中学生のときである。
中学生の頃は「女性アイドル歌手」の全盛期だったが、私はあまりその流行に積極的に乗るほうではなかった。特定のアイドルのファンになることもなかった。テレビから流れてくる歌を聴いていたていどである。だがアイドルに疎い私でも、中森明菜さんがほかのアイドルよりも抜きん出た存在であることは十分に理解できた。
そして30年以上ぶりに中森明菜さんの当時のコンサート映像を見て、あらためて中森明菜さんの凄さを実感した。
コンサートは、ヒット曲のオンパレードだった。映像は歌っているときの中森明菜さんの表情をあますことなく映し出す。じつに楽しそうだ。一方で切ない歌を歌うときは、目に涙をためながら歌っている。歌っているときの表情がじつに豊かで、この人は歌っているときこそが、生きている実感を味わえる時間なのだろうと想像できる。この人から歌を奪うことは、生きていることの意味を失わせることに等しい。そんなことを感じさせるコンサートだった。
2025年の年始のテレビ番組で、いま爆発的なヒットを飛ばしている若い男女ふたり組のユニットが、インタビューに答えていたのを見た。ボーカルの女性は20代半ばで、中森明菜さんが歌手として脂ののった時期の年齢である。
そのインタビューのなかで、二人は自らを「表現者」と名乗っていた。「表現者として心がけていることは…」みたいな言い回しをしていて、ちょっと私は困惑してしまった。
「表現者」って何だろう?中森明菜さんのあのコンサートを見たあとでは、うかつに「表現者」と名のることに誰もが躊躇してしまうのではないだろうか。
中森明菜さんのヒット曲に「禁区」という歌がある。売野雅勇さんが作詞し、YMOの細野晴臣さんが作曲を手がけている。
これはWikipediaにも載っている有名なエピソードだが、当初細野さんが提供した楽曲が没になり、新たに曲を作り直した。そして没になった曲がのちにYMOの「過激な淑女」としてシングル化された。
私が長らく疑問に思っていたことは、「過激な淑女」はどう聴いても中森明菜さんの楽曲にふさわしくないのに、どうしてこの楽曲を最初に提供したのだろう、ということだった。
中森明菜さんの歌は、主語がすべて「私」である。ところが「過激な淑女」の歌詞の主語は「私」ではなく、「淑女」を客体視した歌詞である。もっといえば男性目線の歌詞なのだ。こんな歌を中森明菜さんが歌うはずがない。
しかしその疑問は、私自身の早とちりだった。1984年1月4日にNHK-FMで放送された「細野晴臣の作曲講座」を聴きなおすと、細野さん自身がそのいきさつについて語っていた。曰く、最初は曲のデモテープを送ったのだが、いかんせんデモテープというのはインパクトが弱く、没になってしまった。そのあと売野雅勇さんが歌詞を書いてきて、そこに曲を付けることで「禁区」が完成した。で、そのときに没になった曲をもとに作ったのが、YMOの「過激な淑女」である、と。
つまり、最初に提出したデモテープには歌詞がなく、メロディーだけのデモテープを提出して没になり、そのメロディーをYMOの曲として転用する際に松本隆さんが作詞したということのようなのである。それならば、歌詞が「淑女」を客体視していることも納得できる。
対して売野さんの歌詞は中森明菜さんの歌の定石どおり「私」を主語とした素晴らしい歌詞だった。結果として「禁区」は中森明菜さんにしか歌えない歌となり、「過激な淑女」はYMOにしか歌えない歌として定着した。
しかしよく聴いてみると、当然ながら両曲は細野さんの曲調があらわれている。とくに編曲の一部にその傾向が見られる。
些細なことだが、自分のメモとして書き残しておく。