旅先で読む・大石又七『ビキニ事件の真実 いのちの岐路で』(みすず書房、2003年)
友人の大川史織さんから薦められた、マーシャル諸島出身のキャシー・ジェトニル=キジナーさんの詩集『開かれたかご』(みすず書房、2023年)がとてもいい。個人の語りでありながら、マーシャル諸島の現在に至るまでの重層的で理不尽な歴史を、何よりも心に突き刺さる言葉で気づかせてくれる。
訳者である一谷智子さんの、補助線を引くような丁寧な解説も素晴らしかった。これはあらためて勉強しないとなと、注に引用されている本をできるだけ入手することにした。その中の一冊が大石又七『ビキニ事件の真実』である。
著者の大石又七さんは、いわゆる「第五福竜丸事件」の際の乗組員で、ビキニ環礁の水爆実験により被曝した当事者である。当時20歳の誕生日を迎えたばかりだった。
私はたしか教科書で、「第五福竜丸事件」と習った気がするが、第五福竜丸展示館学芸員の市田真理さんによると、「第五福竜丸事件」としてしまうと、あたかもその船だけが放射能被害に遭ったかのような誤解を生んでしまうので、ビキニ環礁での水爆実験を発端としてさまざまな人たちが放射能被害に苦しんだという意味で「ビキニ事件」と称することにしていると、YouTubeの配信番組でお話しになっていた。しかもほんとうは、ビキニ環礁だけではなく、エニウェトク環礁でも水爆実験が行われていたので、「ビキニ事件」と称したしても、被害の全体を表すことはできないと補足していた。
大石又七さんは、自分が放射能被害に苦しんだことをなるべく人に知られなくなかったという。筆舌に尽くしがたい差別や偏見に苦しまれていたのだろう。しかしそれではこの事件が忘れ去られてしまうのではないかと、この事件を語る役割を引き受けることになる。そこにはかなりの葛藤や覚悟があったのではないかと想像する。そのあたりのことは、1959年に公開された新藤兼人監督の映画『第五福竜丸』で丁寧に描かれている。実はこの事件の全容について初めて知ったのは、この映画によるところが大きい。
本の中では、ご自身の体験と、日米外交といった大きな国際問題とが交錯する。日本政府は、アメリカ合衆国に損害賠償の請求をせずに、アメリカからの「見舞金」を受けとるという方便で政治決着をはかろうとする。これについて大石さんは、
「膨大な被害をもたらした加害国アメリカに、損害補償の請求もしないで、日本政府は「重ねて敬意を表します」と言っている。時代とはいえ、このような外交文書を読むと、政府が国民の人権や国際常識より、アメリカばかりに気を使い問題を処理していた様子がはっきりと読み取れる」
と問題の本質を言い当てている。一つだけ補足すると、「時代とはいえ」ではなく、沖縄の辺野古基地問題を例に出すまでもなく、いまも状況はまったく変わっていないのではないだろうか。
私が驚いたのは、次の一節である。
「一方、日本側にとっても、ビキニ事件は原子力技術と原子炉を早急に導入するための格好の取引材料になった。アメリカの言う通りに太平洋での核実験には反対しない。被害に対する膨大な賠償金も、わずかな見舞金でいい。その代わりに日本が求めている、原子力技術と原子炉の要求を早く進めてもらおう。このような日本側の思惑とアメリカ側の計画がここで一致した。そしてアメリカは、七億二〇〇〇万円というわずかな見舞金を議会にはかることなく国際開発局(AID)から支出することができた。
こうした取引を裏付けるように、ビキニ事件が決着すると、その年、一九九五年(昭和三十)年六月二十一日、日米原子力協定がワシントンで仮調印され、翌年には、原子炉が茨城県東海村に送られてくるという早さだった。日本の原子力発電はそこから始まる。つまり、ビキニの被災者たちは、日本の原子力発電の人柱にされたのだ」
日米関係といい、原子力政策といい、戦後のこの国のあり方を決めたその原点が、「ビキニ事件」にあったのではないかと、あらためて気づかされる。その意味で、本来であればもっと取りあげられなければならない事件である。私は、いままでこの事件のことをちゃんと知ろうとしなかったことに恥じ入るばかりである。
大石又七さんは、2021年3月に87歳でこの世を去った。今年(2024年)の3月1日で、「ビキニ事件」は70年を迎える。
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