回想・卒業文集

深刻な事件が起こるたびに、その事件の容疑者が書いた過去の卒業文集がなぜかほじくり返され、マスメディアに平気で晒される。むかしからそうである。一方で個人情報保護と言いつつも、なぜか卒業文集という、人生で最も恥ずかしい文章を顔写真とともに、マスコミは何のためらいもなくさらしている。「ほら、小さい頃からこの人は、金に執着するタイプだったんですよ」と、まるで鬼の首を取ったようにニュース番組やワイドショー番組の司会者が説明する。なぜ攻撃の矛先は、叩きやすい方にばかり向くのだろう。

ちょっと前、自治体からの給付金4630万円が一人の口座に一括して誤送金されて、それを短期間のうちに一気に使い込んでしまった人のことが話題になっていた。そのニュースが話題になっていたときのTBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」のオープニングトークでは、その人の卒業アルバムや卒業文集をマスコミが公開したことに対する違和感を武田砂鉄さんが述べていた。
メインパーソナリティの武田砂鉄さんは、皮肉を込めて、「もし自分に何かあったときに、同級生に卒業文集を差し出させるのは迷惑がかかるから、あらかじめ公開しておきます。僕の卒業文集を公開したい人は、ここから引用してください」として、番組の中で、自分の高校時代の卒業文集の一部を読み上げた。
『出会い』と言うタイトルの卒業文集で、当然、テーマは高校時代に友人と出会ったエピソードなどを書くことが期待されていたのだが、偏屈な武田砂鉄氏は、当然、そんな純粋な文章は書けない。

「過去を振り返る上で、皆が大事と思わないことが、実は一番大事なことだったりする」

と、冒頭で、みんなが書くであろう文章のテンプレートをガツンと牽制した上で、

「なぜ修学旅行の落とし物のパンツは必ずブリーフなのだろう」
「バスの後ろに座っている人が、そのクラスの権力者なのだ」
「勝手に靴を借りておいて臭いとは何事だ!」
「昨日勉強していないと嘆いた人がいちばんいい点数をとった」
「しまった!尿検査、明日だった!」
「いい加減、マフラーはずしなよ」

と、ひたすら、「あるあるネタ」を羅列していたのである。これは明らかに、ふかわりょうさんやつぶやきシローさんの影響をモロに受けている。
武田砂鉄さんらしい、偏屈な文章である。してみると、やはり卒業文集は、その人の人格形成を知ることのできる最もよい素材ということなのか?
武田砂鉄さんによると、卒業文集では、8割の人は素朴で素直な文章を書くが、1割の人は「ナナメ」の文章を書いて、1割の人はポエムを書くのだという。私の高校では卒業文集は作らなかった(と記憶している)ので、小学校や中学校の卒業文集しか残っていないが、中学校の卒業文集を思い返してみると、その割合はやはり8:1:1だったと思う。
で、私は当然、1割に属する「ナナメ」の文章を書いていた。中学の思い出は一切書かず、「水戸黄門は実は漫遊していなかった」というテーマの文章を延々と書いていた。今から思うと、どうかしている。しかし、それが自分の人格形成に決定的な道筋をつけたことも、また事実である。
卒業文集、実家にまだ残っているだろうか。もし残っていたら、自分に何かあったときのために、同級生の手をわずらわせないように、このnoteで公開しておこうか。しかし、自分の卒業文集がさらされたとしても、第三者が私のそのときの心理を分析したり、気の利いたコメントを言うのは至難の業であろう。なぜなら、それを封ずるために書いた文章だからである。

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