あとで読んだ・第32回(後編)・桑原水菜『遺跡発掘師は笑わない 災払鬼の爪』『遺跡発掘師は笑わない キリストの土偶』(角川文庫、2023年)
面白くてあっという間に読んだ。どちらも面白かったが、私がとくに好きなのは、青森県を舞台にした『キリストの土偶』である。
私の祖父母は青森県の津軽地方の出身で、私の父が生まれた1941年に一家揃って上京し、そのまま東京に住みついた。だから青森に「里帰り」することもなく、故郷という意識もないのだが、それでも小説の舞台が青森となると、それだけで心が躍る。
世界遺産となった北海道・北東北の縄文遺跡群、新郷村に残る「キリストの墓」伝承、江戸時代の東北地方におけるキリシタンの実像、そして四半世紀以上前に世間を騒がせた『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』の偽書事件などを見事に織り交ぜた、極上のミステリー小説である。
著者のストーリーテラーぶりが抜群であることはいうまでもないが、このシリーズを読んでいていつもすごいと思うのは、発掘調査や文献調査におけるディテールのリアルさである。その点を妥協せずに書いていることが、専門家の端くれである私にも違和感なく読むことのできる最大の理由である。逆に専門家ではない読者にとっては、こうしたディテールの記述がどのように受け止められているのか、知りたくなる。
小説に対するまったくのド素人的発言になるが、この種のテーマでファンタジー小説を書こうとする場合、たとえば「キリストの墓が日本にあった」という伝承を史実と見立てて、そこから空想の幅を広げていく書き方もできるのかもしれない。しかしこのシリーズでは一貫してそうした非科学的な発想には一切与しない。むしろそうした非科学的な思考を許してしまう人間の弱さ、そしてそれを現実の利益に結びつけようとする人間の愚かさを描き出している。そのために学問的なリアリティーを細部まで描く必要があり、そしてその上に荒唐無稽な虚構的世界を広げる。この「虚実皮膜の世界」がうまくハマったときほど、小説を読んで心地よく思えることはない。
読んでハッとさせられることもある。このたびのエピソードでいえば、主人公・西原無量の父で、大学で国史学の教授をつとめる藤枝幸充の言葉である。藤枝は、息子の無量に向かってこんな言葉を投げかける。
「歴史家の使命とは何か」
「人間は過去に膨大な過ちを犯してきた。歴史家は誰よりもそれをわかっているはずだ。いまを生きる人間は、目を離していると容易に同じ間違いを繰り返す。権力というやつは特にな。まるで引力でもあるかのように同じ方向に行こうとする。だから監視しなければならない。だが現代人というやつは忘れるのだ。忘れた現代人に、歴史家が警告をし続ける。それが歴史家の存在意義でもある」
「遺跡を掘ること、古い物を残すこと。それらが生活に優先されることはない、という者もいる。だが違う。我々は人間の功績を知るのではない。過ちを知るためにあるのだと言うことを忘れるな」
これって、現実の「歴史家」こそが言うべき言葉ではないのか?
私が尊敬する大林宣彦監督は「ウソから出たマコト」という言葉を大事にしながら映画を作り続けた。小説が「ウソ」の世界だとしたら、そこに「マコト」を見つけることが、私にとって小説を読む醍醐味である。そう思える藤枝教授の言葉だった。