忘れ得ぬ人々・第1回「大垣夜行での偶然」(後編)
大学生の頃、高校時代の親友・小林と「青春18きっぷ」を使って西日本を旅したとき、「大垣夜行」で偶然対面の席になった小林の大学サークル(ジャズ研)の1学年上の女性の先輩。そのことを小林は覚えているだろうか。私は小林に聞いてみた。すると長いメールが返ってきた。
「また大分昔のことを思い出したものですね。
あの旅のことは、断片的ではありますが、何となく覚えています。
大垣夜行の中で一緒になったサークルの先輩はAさんという方で、あの後ほとんどサークルには顔を出さなくなったので、その後は全くと言っていいほど接点がありませんでした。
ただ、大学院に行ったとは聞いていたので、何年か前にふと思い出してネットで検索してみたら、今はR大学の教授になっていました。
大垣駅に着いたあとは乗り換えて倉敷駅で降りました。倉敷の美観地区に行って大原美術館に行ったのを覚えていますし、その時に買った美術館のカタログを今も持っています。その後、尾道まで移動してホテルに泊まった筈です。
翌日だったと思うのですが、尾道の細い路地の坂道を貴君と一緒に登って瀬戸内海の島々の美しい風景を見た記憶があります。その日は小郡に泊まったような気がします。
そして、その翌日は萩と津和野に行きました。そして最後に行ったのは出雲です。確か出雲大社まで行っていた鉄道が廃線になる直前で、その記念切符を買った記憶がありますし、出雲大社の太いしめ縄の記憶と、その後バスで行った日御碕の淋しい日本海のイメージが今でも残っています。その後は夜行列車に乗って大阪に出た筈です。私は大阪で力尽きたというか、もう長旅にウンザリして新幹線に乗って東京に戻ったように記憶しています。貴君は、その後も旅を続け、奈良の方まで行ったのではないでしょうか?この辺の記憶は大分曖昧です。
それにしても、学生時代、乗り物嫌いな私は貴君にむりやり連れられて結構あちこちに行きましたね。今となっては、とても良い思い出です」
小林のメールを読んで、私もその旅の記憶がよみがえってきた。そして私も、Aさんのフルネームをもとに、インターネットで検索をかけてみた。すると、小林の言った通りだった。
その人を紹介している新聞記事に、こんなことが書いてあった。
「…研究室のドアを開けると、真っ先に目を引くのが友人のキューバ土産という、チェ・ゲバラのフラッグ。ラテンアメリカ関連のサブカルチャー本やDVD、CDも所狭しと並んでいる。…北九州市の門司で生まれた。理系の姉たちと異なる分野で、他人とも違うことをしたいと社会学を専攻し、プエルトリコの社会や文化を専門に選んだ。「エスニック・スタディーズが隆盛になってきたころで、多人種性、多文化性を問う新しいテーマだった」。その後、政治、経済、文学、メディア、文化人類学といった学問領域を横断的視点で分析する「カルチュラル・スタディーズ」が登場。これが自分の分野だと直感した。入学した大学では教員が当たり前に政治的発言をしていて、それが今の自分につながっていると言う。99年にR大学に就職。2003年から研究のため、2年間ニューヨークで暮らした。…」
このあと、市民運動にめざめ、今も活動を続けている、と書いてあった。
私は大学生のときに会ったその人の印象を、「あのようなサバサバした性格で、初対面の僕にも気軽に話しかけてくれた人だから、いまでもどこかで持ち前のコミュニケーション能力を生かして活躍していることだろう」と書いたが、私の勝手な願望を裏切らない人生を歩んでいた。福岡出身ではないかという私の推測も、その通りだった。「忘れ得ぬ人」には、そのように思う然るべき理由があるのかも知れない。そしていまは、広い意味で同じ研究者業界にいるのだ。問題関心も決して遠くない。いつかどこかで、また会えるだろうか。
小林からのメールで気になったのは、「何年か前にふと思い出してネットで検索してみたら、今はR大学の教授になっていました」と、彼自身も、何年か前に彼女のことをふと思い出したことである。その後ほとんど接点のなかったという彼にとっても、人生の一場面に通り過ぎた「忘れ得ぬ人」だったのだろう。