回想・ゴールデンヒストリー

もう少し坂本龍一さんのことを書く。

文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」の「ザ・ゴールデンヒストリー」は、市井の人々の人生を取材し、放送作家が原稿にまとめたものを、大竹まことさんが語る、というコーナーで、聴くとしみじみした気持ちになる。

2年ほど前(2022年)、私と同世代の男性の人生が取り上げられていた。
その人は、小学生のころ、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の音楽に出会い、「電気的啓示」(エレクトリック・リベレーション、芦原すなお『青春デンデケデケデケ』より)ならぬ、「テクノ的啓示」を受ける。そこから、寝ても覚めてもYMOの日々が始まる。
しかし、別れは意外と早く訪れる。1983年に、YMOはわずか5年の活動に終止符を打つのである。「解散」ならぬ「散開」コンサートが、全国ツアーで行われ、その最後が東京の日本武道館だった。
当日券のあてもない彼は、コンサートの当日、せめて近くで同じ空気を吸おうと、日本武道館まで訪れる。すると、「友だちのひとりが来れなくなった」というグループから、運よく定価でチケットを譲ってもらうことができ、YMOのラストステージを噛みしめたのだった。
その後もYMOの後を追いかけ、お金を貯めてシンセサイザーを買ったりするが、勉強からは落ちこぼれてしまう。それでも、独学でコンピュータを勉強し、その技術を生かすことのできる会社に入る。
一時期、音楽関係の仕事に就いたこともある。そのときに、細野さんや坂本さんが自分の間近にあらわれる機会があり、一ファンとして握手をしてもらったことがあるという。
YMOが自分の励みとなり、いまではIT関係の会社の取締役になった。でも夢は、「一ファンとしてではなく、いつかYMOのメンバーと仕事でお会いしたい」と、いまでも彼は、YMOを追い続けているのだ、と、大竹まことさんのナレーションが締めくくられる。

…小・中学生の時にYMOの洗礼を受けた同世代の私にとっては、まるで自分のことのようだ。思わず涙が出る。
当時は、まだ中学生くらいだったから、コンサートには行けなかったものの、レコードは全部買い、3人が載っている雑誌や本を集めた。シンセサイザーも買った。大人になってからも、さまざまな再編集版のCDや、「YMO伝説」について書かれた本を、できるだけ集めた。散開から10年経ったときに東京ドームで行われた再結成のコンサートも行った。坂本龍一さんの武道館ライブも行った。こういうのを、いまでいう「推し」というのかどうかはわからない。
僕は音楽関係の職に就くような才能はないが、自分が10代の時に憧れていた人と、一ファンとして会うのではなく、一緒に仕事をするというのが、いちばんの理想だというのも、よくわかる。
2021年の夏、私は戦争を特集したテレビ番組の取材を受け、コメントを言ったのだが、それが8月15日の「敗戦の日」に放送されたとき、自分が語っているバックに、坂本龍一さんの「Merry Christmas,Mr.Lawrence」のピアノ曲がかぶさって流れたときは、坂本さんといっしょに仕事をしている気分になり、「ああ、生きていてよかった」と思ったのだった。

大林宣彦監督といい、坂本龍一さんといい、10代の頃の憧れの人と一緒に仕事をしたことを、10代の頃の自分に自慢してやりたい。

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