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43スピリチュアルとサイキックの違い(C領域-ハート・サイキック編)
<C>ハート・サイキック領域
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前回(記事42)で、サイキック能力の使用は要注意であることが理解できたと思う。
だが培ったサイキック能力を利己的な目的に使用せず、他者への愛のために活用する方もいる。
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たとえば病気を治してあげたい、悩みを解決してあげたいという純粋な気持ちで霊的治療やお祓いを行う、ハート・サイキック領域(C)の人たちである。
この領域(C)の人はサイキック能力を金儲け、商売目的で使うことはないので、無償で奉仕し、お金を受け取ることがあってもごく僅かな必要経費程度。
家族や愛する人の病気治癒のために御百度参りや滝行などを行う人々も(最下部ではあるが)この領域(C)に該当する。
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それらの人々はサイキックと同時にハートフルな人生を歩んでいる。
このハート・サイキック領域(C)はハート・スピリチュアル領域(D)同様に、天国に入れるポジティブな意識レベルの領域である。
<サイキック能力がポジティブに作用するケース>
前回話した通り、サイキック能力の活用は一時凌ぎの対処療法に過ぎない。
とはいえこの領域のサイキック能力は愛を伴っているから、守護天使による引き合わせで、サイキック治療などを必要とする人がこのC領域の人と出会い、サイキック治療を受ける機会が与えられることもある。
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その場合は過去世での善行や高次元の恩寵により、病気が治癒されるポジティブな運命が育まれ、それが熟したときに、そのサイキック治療者との出会いが図られる、というわけである。
そのような場合、サイキック能力に頼っても、前回(記事42)で解説したようなカルマが生じることはなく問題の先送りにもならず、治療は完治に向かう。
スピリチュアルの視点でみた世界は複雑であり、サイキック能力の活用の全てが否定されるわけではないということである。
<スピリチュアルの世界は多層構造で曲線的である>
この世である3次元、肉体を持たない存在がいる4次元、愛のレベルに達した魂たちが住む5次元、さらに上層の天使や神々の世界である高次元があり、それぞれ世界の違いは意識レベルの違いである。
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この次元間を行き来する個々人の運命のプログラム、カルマの定め、高次元の援助、慈悲、恩寵、その他の意思といった様々なエネルギーはまっすぐには伝わらない。
既にこの世での実現が定められている運命は不思議なカーブを描き、異なるルートを伝い、忘れた頃に届いたり、来世に届いたりする。
その伝達ルートのカーブは個々に描く角度も円周も異なり、螺旋階段のように少しづつこの世に伝達されていくが、もちろん3次元に降りてくる降下速度も運命の数だけ異なる。
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一年前に発生したカルマと数百年以上前の前世で起こしたダルマ(ここでは良きカルマ=善行の意味)が同時に届き、カルマにより大きな事故に遭うはずが、ダルマにより相殺され事なきを得ることもある。
私がこのシリーズで紹介しているA〜Eのマトリックス表は、そのような複雑な多層次元での意識レベルをとてもシンプルにサマライズした表だと思っていただきたい。
カルマによる病気がサイキック治療により治ったり治らなかったりするのは、この非線形の複雑なエネルギーの流れによるものである。
<自力によるサイキック能力は二元論に縛られ限界がある>
しかしこのようなサイキック能力のポジティブな活用、ポジティブな出会いもあると記したものの、それは最初から期待するものではない。
前回の記事で説明した通り、サイキック能力により様々な問題を解決したとしても、受けた当人が自分の問題を理解して生活を改めたりしないと、また問題が再発するケースが大半である。
(完治し反動もない場合は高次元の恩寵による)
低級霊が取り憑いているという人のために、それを祓い除霊したところで、当人がその低級霊的と縁が生じないよう生活を志すなど姿勢を改めないと、また取り憑かれてしまう。
であるにもかかわらずそういう人こそ依頼心が強いから何度も治療や祓いを頼み込んでくる。
(ましてや無償や僅かな気持ち程度のお布施であれば、ますますつけ上がり利用しようとしてくることは想像に難くない)
そのためサイキック能力を用いて他者に奉仕する行為はきりがない。
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愛は与えることではあるが、ギバー(Giver 与える人)にも2つのタイプがある。
成功するギバーは、相手のハートにタッチし当人の意識レベルを高める。
時には厳しい言葉もかける。
それこそが真の愛。
失敗するギバーが与えるのは盲目的な貢ぎ。
お金を貸して返してもらえなかったり、仕事の成果を全て取られたり、相手のエゴの養分になるだけで、単に搾取されるだけのカモである。
少なくともサイキック能力を使い、相手の病気を治療する場合は、並行して生活を改めるよう、過去のカルマを相殺するために善行を積むことをアドバイスした方がよい。
しかしそのサイキック能力を愛のために使い、どのようにフォローしたとしても、それを自力に頼るだけだと、自分自身の精神力をひどく消耗する。
人間は完璧な存在ではないからである。
人間である限り、どれだけ才に恵まれ弛まぬ努力を続けていたとしても、毎回上手くいくとは限らず、失敗もある。
その場合は良くなる結果を期待していた依頼者を幻滅させ、逆恨みされることもあり得る。
サイキック能力の活用は、スポーツ、芸術、他の様々な分野での専門技術、スキルの活用と何ら違いはない。
スポーツの一流選手が常勝するとは限らず、名医が必ず手術に成功するわけではない。
特に悪霊祓いなどはネガティブなものとの戦いであり、それはパワー対パワーであるから勝ち負けがある。
勝ち負けの世界に入り込むのがサイキックの世界である。
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ハート・サイキック領域(C)は愛ある世界とはいえ、勝つか負けるか、成功するか失敗するかという二元論の世界に属する。
それに対してハート・スピリチュアル領域(D)では、勝ち負けの区別はなく、全ての体験を魂の栄養として霊的進化のために受け入れる一元論の世界である。
<予言について>
サイキック能力の一つとして予知能力、予言がある。
殆どの自称予知能力者は、数打てばいつかは当たるという具合に多くの予言を為す。
大地震などの大きな災害が起こった後になってから、地震を予知していた、予言して的中したと主張し、マスコミが騒ぎ出す。
的中した証拠もない自己申告か無理矢理のこじつけが殆どである。
そのため、その後、事前に公言した予言は100%外れ、大衆から忘れ去られて消えていく。
それゆえに偽予言者が脚光を浴びる期間は短い。
だがその関係者やマスコミは、その短い期間が稼ぎ時とツボを押さえているので、偽予言者とつるんで予言が当たったと煽り立ててアピールしてブームをつくり、本の出版や講演会などで大金を得る。
予言が外れた場合は、偽予言者は神々に祈ったから我々は最後のチャンス・猶予を与えられたと言い訳をし、言い訳が尽きたら解釈が間違っていて実は◯年に起こると再びアピールして予言の賞味期限の延長を図る。
その間に別の新たな予言を出して大衆の目を逸らして新たな関心を引き寄せることもある。
予知能力者、その取り巻き、関係者、マスコミ連中だけでなく一般大衆も予知、予言に惹かれる。
それは何故か?
一般大衆にとっても自分達の利益につながるからである。
一般大衆は自分だけは地震などの災害から逃れたいという本能に従うため予知を好む。
また自身が安全だと思っている場合は、予知予言を当たるか外れるか関心を寄せ、エンターテインメント、娯楽の対象とする。
自分自身が受験や就職等に失敗して現在の自分の状況に絶望している場合は、予言の終末論、人類滅亡というワードに惹かれ、人生のリセットのチャンス、滅亡になっても勝ち組を道連れにできると信じて、その大災害の発生を願う。
予言する者、受け取る者、双方の利害、エゴの思惑が一致するからブームが沸き起こる。
いくら予言が当たろうが外れようが、あなた自身の運命、環境はあなた自身の過去の行い、そして今この瞬間の意識レベル次第である。
つまり、
あなたの運命が予言の影響を受けることは一切ない。従って、警戒も心配も無用である。
むしろ警戒すべき対象は、予言を娯楽として楽しんだり人生リセットのチャンスとして現実逃避に利用する自分自身の内側にいるエゴそのものである。
従って、一部の似非霊能者の予言、それを本物、真実の予言と騒ぎ立てて扇動する関係者やマスコミは無視すべきである。
預言で財を築いた者、財を失った者、惑わす者、惑わされる者、自分を見失った者は数えきれないほどいるが、予言で救われた人はいない。
一時的に栄華を極める偽予言者の末路も、お察しの通りである。
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<神示について(私見)>
それでは有名な日月神示はどうだろうか。
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私は以前、天日津久神社に参拝したとき、アマヒツクノカミと交流する機会に恵まれ、その書を読む機会を得た。(記事38)
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この神示を研究されている方は多いし、岡本天明氏のような偉大なる先人に対して、ぽっと出の私には発言権はないと自覚しているので、以下、私見とさせていただく。
日月神示は予言書ではなく、道から外れてしまった人間の意識のあり方を神の方向に戻そうとする神の恩寵により与えられたメッセージである。
クニノトコタチノカミからアマヒツクノカミ、アマヒツクノカミから岡本天明氏へと、光のリレーがなされてこの世に出された。
長きにわたり、その暗号めいたメッセージを読み取られてきた方々には謹んで敬意を表する。
しかしながら一方で、予言書だと決めつけて恣意的な解釈を重ねるならば、それは人間のエゴに起因したバイアスがかかっているので、解釈した結果は実現しない。
岡本天明氏は審神者としてのサイキック能力を天性のものとして授かった。
そしてそれを世のために使う意識をもつスピリチュアル・サイキック領域(C)のレベルの方だが、その才に執着することなかった。
また他の似非預言者とその崇拝者のように予言めいたものを拡大解釈することもなく、霊的なものに対しては、良識ある社会人なら誰もが持つ(ポジティブな意味での)懐疑心をもって判断し、サイキック能力を営利目的に利用することはなかった。
このように彼自身のサイキック能力に執着せず手放してきたため、彼はハート・サイキック領域(C)からハート・スピリチュアル領域(D)へと移行した。
神に委ねる意識レベルに達したその時に、アマヒツクノカミから神示が降りた。
彼はその時スピリチュアル・ハート+降臨領域(E)に入ったのであった。
<ハート・サイキック領域(C)とスピリチュアル・ハート+降臨領域(E)の違い>
ハート・サイキック領域(C)とスピリチュアル・ハート+降臨領域(E)、いずれも愛、人のための利他の気持ちで、科学では説明がつかないパワーが使われるという点において共通している。
従って直観に優れない一般の第三者から見れば違いが分からずどちらも凄いと思ってしまう。
ところが、前者の領域(C)は自分自身のサイキック能力だけに依存する自力のレベル。
それに対して後者の領域(E)は、高次元の慈悲、恩寵、その他の意思により、本人の思いとは関係なく高次元の存在が降臨して奇蹟を起こす、絶対的他力のレベル。
これが違いであり、その差は無限大と言ってよい。
どちらも愛のために生きるが、ハート・サイキック領域(C)は自分自身の不完全なサイキック能力に固執し続けてその能力に依存している。
そのため、善意の固まりのような行為であっても、人間は不完全な生き物であるからどうしても不完全な結果を生む。
そして、ハート・サイキック領域(C)からスピリチュアル・ハート+降臨領域(E)には直接入れない。
領域(E)入るには、まず自力から他力に意識レベルを上げて、ハート・スピリチュアル領域(D)の最上位レベルに入ることが前提条件になる。
ハート・スピリチュアル領域(D)の最上位レベルは、その自力を放棄して神に委ね、神の降臨も含めた一切の期待を持たない人々の領域である。
領域(D)の最上位に移行するには、悪意等のネガティブな意識がないのは当然で、さらに善意すら放棄しなければならない。
善意は悪意に変わり得る二元論の世界に属するからである。
あれほど世話してあげたのにお礼もない、などと言って善意が悪意に切り替わるのに時間はかからない。
一切の期待を持たず、善悪を超えて神に委ねる一元論の世界に入ることが必要なのである。
領域(D)の最上位の意識レベルに達したならば、高次元の存在が降臨する可能性が出てくる。
その人の意識レベルが純化され高次元の波動に近くなっているからである。
実際に降臨したならば、それがスピリチュアル・ハート+降臨領域(E)に入ったことを意味する。
ただし、領域(D)に入り、さらに意識レベルの純度が高まり、この領域(E) に入るだけの意識レベルに到達したとしても、実際に高次元の神々が降臨するかどうかは自分自身では選べない。
むしろ領域(E) に入ることを望まないことが領域(E) に入れる条件である。
降臨は高次元の神々が決めることだからである。
ハート・サイキック領域(C)の人の多くは愛と才能両方を兼ね備えた霊能力者であり、人望があり社会的にも成功を収めることが多い。
優秀であるが故に「他力」、もっと空極の表現をとるならば「無力」であることが神の道であることを知らないので、悟り、意識の覚醒もあり得るハート・スピリチュアル領域(D)に移行できない。
自己放棄して「無力」になるとき、神の愛、光、力が自分自身に流れ込むが、そもそも「他力」そして「無力」という関門を突破できない。
努力で才を磨くことで道が切り開いてきたのでこれからもそのように精進し続ける。
努力して才を磨く、それは素晴らしい生き方だと思う。
素晴らしい生き方であるが、それはこの世に生まれ出でて地上の世界を生きる我々人間の価値観によるものに過ぎない。
神々はさらにその先、自分たちの元に真っ直ぐ向かう魂が現れることを望んでいる。
他力、そして無力が神への道だと受け入れないのであれば、ハート・スピリチュアル+降臨サイキックの領域(E)には入る可能性はない。
ハート・サイキック領域(C)は、修行などを通じてサイキック能力の開発に研鑽する(クンダリニーヨガ、仙道、修験道等)人々の最高峰でもある。
このC領域では神々として崇敬されている存在も多いが、この領域にとどまり続ける限り、イエスキリストやゴーダマブッダのような真の神仏レベルの領域(Dの最上位およびE)には入れない。
イエスキリストは愛と救済を説き人類に対して天国の扉を開いた。
ブッダはエゴの根絶を説き、天国のさらにその先の悟りへの道を示した。
その違いは役割、使命の違いであり、いずれも人間に転生した魂の中でも最高の聖人であることに疑いの余地はない。
C領域の人々はイエスやブッダのレベルに入れないどころか、古代から現代に至るまで、驚嘆に値するサイキック能力を無償の愛、見返りのない愛のために捧げたケースは1%にも満たず、殆どが自らのサイキック能力に溺れ、金銭欲に駆られてスキャンダルやトラブルを招き、B領域に堕ちていったはずである。
<スピリチュアル・サイキック・ハート・エゴそれぞれの領域間の移行について>
マトリックス表を通して各領域間の移行について説明する。
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マトリックス表の赤い矢印は双方向いずれも移行があり得ることを指す。
エゴからハートへと意識レベルが高まることもあれば(A→D、B→C)、ハートからエゴへと意識レベルが堕落することもある(D→A、C→B)、ということを意味している。
緑の矢印は一方通行。
霊的ワークを継続的に行うか他の霊能力者に依存(A→B)、高次元の存在が降臨(D→E)。
一度、身についたサイキック能力は無くなることはない。その意味で元いた領域には戻るには意識的、自発的にその能力を放棄するしかない。
(C→D)
灰色の矢印は移行できないことを意味する。
自力サイキック能力をどれだけ極めても、高次元の存在が降臨して顕現する奇蹟のような現象を起こすことはできないということである。
(C→E)
だが、自力によるサイキック能力の限界に気づいてそれを放棄しようとしても、これまでその当人のサイキック能力から恩恵を受けてきた人や信者は理解せず、そのサイキック能力を求め続けるため、その能力の放棄は難しい。
サイキック能力を持つ当人にとっては、その能力自体が相当の重荷となってしまうのである。
結局長い目で見ると、サイキック能力の活用は意識の覚醒、霊的進化の妨げになるので、常日頃からその活用は控え、できれば放棄した方がよい。
個人のサイキック能力で人の役に立つことはあるが万人を救えない。
サイキック能力を放棄し自分が無力であることを謙虚に受け入れるならば、神の降臨の可能性が生じる。
あなたは無力であるが、無力であるからこそ神の降臨のための媒体となる。
そしてその神の降臨が万人を救うのである。
以上、読んでくれてありがとう。
次回のハート・スピリチュアル領域(D)についての解説はこちら→記事44