52 スピリチュアルな視点からみた対人関係について
夏休みなどの長期の連休では色々な友人に会う機会も多い。
特に学校の同級生やクラブ仲間とは何歳になっても打ち解けて話せるのでありがたい存在である。
会社に入ってから親しくなる人もいるが、上司と部下の関係だったり営業上のお付き合いであったり、社内外の利害関係が絡む分、互いに気をつかう。
その分摩擦もないが、腹を割って本音を話せる仲といえば旧友に勝るものはない。
ところがそんな旧知の仲でも、久しぶりに会ってみたら対応が煩わしい人になっていた、ということもある。
原因は相手だけでなく自分にもあるはずなので、自分への戒めも兼ねて今回はその要因を考察してみたい。
私が経験した範囲では、人との交流で避けた方がよい話題は、以下が挙げられる。
・特定の思想へのこだわり
・コンプライアンス、ポリコレの主張
・過去のトラウマによる心理的バイアス
・格差の拡大(健康、年収、家族等)
だが自分からはこれらの話題を控えていても相手から振られることもある。
そのような場合もできるだけ相手を理解し、影響を最小限にとどめて対処できればと思う。
以下、それらを一つ一つ見ていこう。
<特定の思想へのこだわり>
特定の信仰や思想をもつことは個人の自由である。
トラブルになるのはそれを人にも強要したり、人との交際よりそれらの活動を優先する場合である。
たとえばベジタリアン、ヴィーガンの良さを語るのはいいとして、自分の子供や伴侶に肉魚を出さない、食べさせない、友人との会食もヴィーガンの店でしか参加しないとなると摩擦が生じる。
私の場合、このNotesの自己紹介欄で真理を探究、授かった啓示、直観、直接体験を通じて得た真理を紹介などと書いているが、実社会ではそのようなことは何も言っていないので問題はない。
真理探究というと、悟りを開くために滝に打たれたり絶食したりとか、戒律を厳格的に守ってるイメージを持つ人もいるだろう。
だが私は禁欲的なこともしていない。
世の中にはヴィーガンどころか、ブレサリアンといって何も食べず呼吸だけで生きている人もいると聞く。
本当なら凄いとは思うが、私はそういう生き方はできないし、したいとも思わないから食べたいものを食べている。
食事については牛豚の類いは苦手だが、お付き合いの場で出されればありがたくいただく。
スピ系の人はお酒を避ける人も多いが、私は気にしないで飲む。
新居に遊びに来る友人のためにビール、焼酎、日本酒、ウイスキー、ワインと一通り揃えている。
内的ワークも無理しない。
辛いと思うくらいならやらない。
瞑想を実践するのは至福を感じるからであり、目に見えない世界から啓示をいただくこともあり、充実した日々を過ごせるからである。
このNotesではスピリチュアルかつシリアスな話を書いているから意外に思われるかもしれないが、私は職場仲間や友人とは普段スピリチュアルな話をするどころか、冗談ばかり言って笑っている。
古くからの友人とはここで書けないような下ネタやブラックジョークなども平然と言って笑い転げている。
ジョークで自分も人も笑顔にさせるのはストレス解消の効果があるし、何よりも人との交流を円滑にする。
そして思想の類は心に秘めて、他人への勧誘、主張は控える。
それが円滑な交流の基本だと思う。
<コンプライアンス、ポリコレの主張>
ところが、そのブラックジョークを遠慮なく話せるはずの旧友との関係も、社会自体が変わってきたせいか、これまでのようにはいかなくなっている。
背景の一因は、コンプライアンス、ポリティカルコレクトネスという概念が出てきたことである。
前述した思想のこだわりと似ているが、こちらは社会全体が正しい(?)とお墨付きを与えているだけに、ときに厄介である。
(ケース1 童謡)
たとえば昔からある童謡の山寺の和尚さん。
山寺の 和尚さんは
毬は蹴りたし 毬はなし
猫をカン袋に 押し込んで
ポンと蹴りゃ ニャンと鳴く
明るく楽しい歌だが、ここ最近は動物虐待であると主張する人がいる。
以前はそのような意見を聞いたことがなかった。
この歌詞は創作に過ぎないからなんら問題はない。
動物虐待になるのは、実際にネコを蹴ったときである。
一方、実社会ではノラネコに餌をあげるだけで批判される。あちこちの人の庭で糞をしたり子ネコを産むからである。
人間の都合としてはその意見は尤もであるが、餌を与えるなという主張はノラネコに死ねと言っているに等しいし、子ネコを産むからダメというのはネコに絶滅しろと言っているようなものだ。
これらは最も過酷な虐待ではないだろうか。
人の都合とネコの生きる権利の折り合いをつけた結果、ノラネコに餌を与えるなら責任をもって室内飼いをする、または飼えない事情があるなら、せめて捕獲して不妊手術をし、地域ネコとして継続的に世話をする、この二択が現状の解とされている。
それでもその不妊手術やそのための捕獲等の手間と費用を考えると簡単ではない。
そもそも不妊手術自体も虐待ではないだろうか。
そして誰かがそのような配慮をせず無責任にエサをやり続けて自分の庭で糞をされたらネコを蹴る人も出てくるかもしれない。
その蹴った瞬間だけをとらえて「虐待」だと叫ぶ。
あらゆる現象には必ずコンテクスト(背景、状況、文脈)がある。全ての現象はコンテクストと合わせて理解しないと真の理解に至らない。
そしてポリコレを主張する人々の問題は、そのコンテクストを理解しようとしないことだ。
このように、ノラネコの餌やりというのは一見思いやりの行為に見えるが命の問題から近隣迷惑まで様々な問題を含んでおり、人と動物双方の満足を満たす解決は難しい。
ところがコンプライアンスやポリコレ、ハラスメントを主張するだけならノーリスクノーコストでなんら責任を負うこともなく正義感を振りかざすことができる。
だからコンテクストを知ろうとせず不毛な言葉狩りをしたがる人が後を絶たないのだろう。
(ケース2 イラスト)
次は最近の例になるが、今年の6月に宇野亜喜良展が開催されていたので行ってきた。
宇野さんは私の生まれる前から数多くの商業広告のデザインをこなしてきたイラストの大家であり、若い世代のファンも多い。
そのため展覧会も多くの人が集まり大盛況だったが、宇野さんの描く幼い少女の裸体イラストは児童ポルノではないかという意見があった。
そのようなネガティヴな捉え方はごく僅かであるが、人によってものの見方が全く異なるという事例である。
イラストを含む芸術は一つの表現に過ぎない。
児童ポルノとして問題になるのは、実際に少女をそのような姿にして撮影公開したときである。
精神医学でいうところのペドフィリアの人物が鑑賞者に混じっていても私たちはそれを知る由もないし、人に迷惑をかけないなら、なんら問題ない。
それなのにポルノだと騒ぎ立てて一体誰が得するのだろうか。
自分の好みに合わなければ見なければよい。
自分の好みを人に押しつけたり嫌いなものを世の中から抹殺しようとする「正義」に、私は何の価値も見出せない。
(ケース3 カップル)
3つ目の例に入る。
以下は単純化して少々フェイクを入れているが私が体験した事象。
あるとき、男女のカップルが公衆の面前で抱き合ってキスをしていたから
「目のやり場に困るなあ、見えないところでやってくれ」
「まったくだな」
という会話を友人としたことがある。
別の日に、今度は男同士のゲイカップルが公衆の面前で抱き合ってキスをしていたので、同じように
「目のやり場に困るなあ、見えないところでやってくれ」
と言ったら、一緒にいた友人から
「お前はLGBTを差別するのか!」と強い口調で言われた。
スイッチが入ったのか、その後、歩きながら私をずっと批判し続けた。
無益な摩擦を避けるには、一部の人にスイッチが入る「特定の分野」に対する発言は控えた方がよさそうである。
<過去のトラウマによる心理的バイアス>
随分前のことだが、ある時私は、スピリチュアリズム関連でなかなか興味深い内容のブログに出会い、その投稿をいつも読んでいた時期があった。
(Notesではない。念のため)
そこで、私はいつも貴重な情報を提供いただいていることについて感謝の意を述べつつ、質問をメールにて差し出したことがあった。
その方は女性だったが、私が男性の読者と知るや否や非常に冷たい態度をとった。
どうやら、様々な男性から(本人曰く)セクハラめいたメールが届いたり、仕事や店で男性から話しかけられることが多く、うんざりしているとのこと。
その方は妙齢のお嬢さんというわけではなく、公開プロフィールによると40代半ばだったので自意識過剰ではないかと思ったが、その方の返信メールは、私の感謝の表明には一切触れず、明言はしないもののブログを読むのは結構だが連絡をしないでほしいという態度であった。
良いことが書いてあるブログとご本人の苛立ちのギャップは相当なもので、本当にその方自身が書いた内容を実践しているのか、正直、疑問を持った。
そういうわけで私とその人との関係はその一回きりで終わり、ブログも底が見えた気がして読むのをやめてしまった。
私の経験で言えば、このタイプの人は非常に読書量の多い熱心な勉強家で高学歴に多いタイプだが、左脳の働きが強いので知識から入るが知識で終わってしまう傾向がある。
読書を通じてスピリチュアルな知識を得ることが好きである反面、そこで満足してしまい内的ワークの実践を疎かにしてしまいがちである。
それに気がつけば良いが、自身の知識量から他人を見下したり偏見の目で見てしまう一種の慢心、いわゆるスピリチュアル・エゴに囚われた状態と思われる。
千冊の本を読むより1時間の瞑想
極論ではあるが、左脳に偏っている人にとっては金言だろう。
本で得た情報を自分なりに体験を通じて昇華しなければ、いくらブログを書こうがそれはただの情報の伝達に過ぎないからである。
さて、旧友との関係へと話を戻そう。
<格差の拡大(健康、年収、家族等)>
学生時代はみな同じ環境で生活していたが、社会に出てからリタイアが近づく頃には、その間の歩んだ道、何を積み重ねてきたかによって人それぞれ価値観、生活環境、気持ちの余裕さが異なってくる。
そうなると人は他人と自分を比べたがる生き物だから、優越感や劣等感に振り回されるようになりがちである。
古くからの友人だと何でも話していい、話すべきだと思っているから、平気で無遠慮というかデリカシーのないことも聞いてくるから始末が悪い。
(以下のやりとりは多少のフェイクを入れてはいるが私の体験である)
たとえば、友人Aは、
「◯◯に勤めてるんでしょ。それならけっこう年金ももらえるよなあ」
「前から米国株の投資してるって聞いたけど、アップル持ってるって言ってたよね。もう億り人じゃないの?」
と、人の懐を探ってきた。
こちらとしては彼にも若い頃から再三米国株投資の魅力と可能性について語ってきた。
私と一緒に投資してきたなら、こんな会話も起きなかったはずである。
また、別の友人Bからは
「なんで再婚しないの? 相手紹介しようか? 50代で性格に少し難はあるけど相手探してる女性知ってるから」
まったく余計なお世話である。
そもそも結婚したいなどとは一言も言ったことがない。
性格に難があるけど、と添えて紹介されて気分が良くなる人は世界で一人もいないはずだ。
おそらく私が食いついてきたらヌートピアンに紹介したのは自分だと周りに言って自慢したかったのかもしれない。
丁寧に断ったが、そんなことがあったことも忘れた頃に
「ヌートピアンはあの性格を治さないと、再婚は無理だとBが言ってたよ」
と、ご丁寧に告げ口をしてきた仲間もいた。
<デリカシーに欠ける発言への対処法>
まず一切の反論はしない。
言い返すのは火に油を注ぐ結果にしかならないからだ。
その場では言い返さず、言われたことはしっかり聴いて受けとめるが、悪意のある感情的なエネルギーまでは受け取らない。
そしてそのような友人とは今後距離をおくだけである。
過去には何でも腹を割って本音を話せた彼らは、今でも私のことを何でも遠慮なく話せる友人だと思ってくれている。
だが、今では意識のレベル、生活環境、いずれにおいても隔たりが生じた結果、遠慮なく話せるというその中身が変わってきているのだ。
以前はピュアでバカ話もしてふざけ合ったりしたが、一体感が伴っていた。
今はその一体感はもうない。
そう感じているのは私より彼らかもしれないが。
さて、上述した私の対処法だが、それができず言い返して口喧嘩になる人が多いのではないだろうか。
私の場合、瞑想や自己観察(自分の思考や感情を客観的に観るワーク)などの内観のワークを実践しているので、比較的簡単に実行できる。
自分の中で感情的にムッとした気持ちが起こったら、ああ怒りのエゴが動いてるなあ、と自分の内面を客観的に観察する。
そしてそれを手放す。
多くの人はその怒りを自分自身と同一視するから問題を起こす。
また、酷いことを言われるのは自分にも原因があるわけで、過去のカルマによる場合もある。
その場合は、ただ言われていることを受けとめて手放すだけでカルマの清算が行われているので、再度同じようなことは起こらなくなる。
また起こる場合は、自分自身の問題が消えておらず、学ぶべきことがまだ残っているということである。
なお、愛の実践(人助け、寄付、慈善行為など思いやりをベースとした行動)を積極的に継続していると、徳が積み重なり自分の霊格も高くなるので、カルマの解消は促進されエゴだらけの低波動の人々ともスムーズに縁が切れやすくなる。
徳が十分すぎる場合、経済的に余裕が生じてお金のために嫌な人物と一緒に仕事をする必要もなくなり、FIREして瞑想三昧や霊的書物の読書の日々を過ごす人もいる。
神社やお寺で嫌な人物との縁切りを願う人も多いが、カルマの清算のためにそのような人と出会っているわけだから、そういう行為は問題の先送りにしかならない。
サイキックなパワー(念力、魔術等)でお金や名声を引き寄せようとしたり、気に入らない人物に呪詛で意趣返しをしたがる人もいるがやめた方が身のためである。
(詳細は記事42を参照のこと)
煩わしい人間関係のある仕事から解放されたいという気持ちから、スピリチュアル自体でお金を得て生活したいと願う人もいる。
だが、内観のワークを実践していなかったり、徳の積み重ねが不足した状態で人との交流を避けようとすると、定職に就かず、貧困かつ引きこもりという社会不適応者になってしまうリスクが高まる。
そもそもスピリチュアルを利用してお金を得ようとするならその時点で、覚醒、エンライトメントに至る可能性はなくなる。
ある程度までいってもその後堕落する人は無数にいる。
そして、スピリチュアルビジネスではごく稀に成功する人もいるが、ほとんどが端金を得るだけで終わる。
心当たりのある方は現在のスピリチュアルへの取り組みを少し見直すことを推奨する。
私は子供の頃から他人様からあれこれ言われてきて、今でも上述したようことが起こる不完全な人間であるが、全ては学びの機会として受けとめている。
上述した友人からまた会おうと言ってきたら応対するが、縁が切れて会わなくなる友がいれば、それはそれでかまわない。
その場合は新たなステージに入ったと思うだけである。
さて未来はどう展開するか、ある意味楽しみである。
それではまた。
読んでくれてありがとう。