精神医療・福祉の「良質なユーザー」として
少し寄り道になってしまうかもしれないけれど、ぼくら(障害者と呼ばれるひとたち)が多かれ少なかれ引っかかる安定剤のこと。
総称して向精神薬と呼ばれる各種精神安定剤を、多くぼくらは常用している。そのことにコンプレックスを持つ仲間も多い。ぼく自身も比較的多量のムードスタビライザーと呼ばれる向精神薬を常用させられている(しているのではない;残念ながら)が、そもそも治療指針としている厚生労働省は、ぼくの深読みからすれば、ドラッグでもダウナーズに分類される麻薬と向精神薬をひとくくりにして「取り締まって」いる。意識を「下へ」コントロールする麻薬・向精神薬と、アッパーは覚せい剤一般として取り締まる法律が違う。国民の意識のコントロールを徹底しようという権力の意図を、このいくつかの法体系を見たときに、ぼくは感じてしまった。杞憂であることを祈る。
それはともかく、医療と福祉によるたゆまぬ教育によって、ぼくらは病であって薬が必要なこと、「状態が悪く」ならないように薬を常用すること、医師をトップとした医療福祉に従順であることが善であるといったことが「病識」とともに刷りこまれる。ただの向精神薬依存が、統合失調症やら躁うつ病やらの病名をつけられて、精神病院で従順な子羊となる。向精神薬を常用しながら生活することが、体にいかに負荷をかけるかは常用している者には誰にでもわかることだが、それは病理に解消される。さてぼくは偽悪的だろうか。もっと従事者を含めたまわりの人々を善意で書けといわれるだろうか。
ところで、残念ながら、ぼくは(警察を含めた!)、福祉・ケアの従事者の善意と良心を知っているし信じている。なんと「患者」でありながら地域医療推進派なのだ。その意味で医療・福祉の良質なユーザーであり、敵は多くなってしまったが、戦うことは好みではない。だが、「地獄への道は善意で踏みしめられている」
ぼくはリアルであることを願うのであって、正義を言っているのではない。冷静に、リアルに、悪意も善意も捨象したところで正確にものを見ようといっているだけであって、錦の御旗をえようという気など何十年も前に捨てた。自分の位置から見える正確な景色・意識を淡々と言葉にしているだけだ。何をみんなは誤解するのだろう。ぼくの言葉が通常の日本語よりとげとげしいのだろうか…
自分の精神を扱うものである以上、一般科よりもよりリアルに治療関係を結ばなければならない、そう自戒をこめて心がけるのは、そんなに悪だろうか。「お医者さま」とすら呼ぶ「古い」日本人は醜悪ではないか。
どうもこの話題になると活動家時代の血もたぎる。強調したかったのは、ぼくが、既存の活動・運動からは一歩身を引いたものであること。ともによりよく生きていく道を模索するべく言葉を連ねているだけであることをもう一度言って、今日はここまでにしておかざるをえない。
追記
もう一言言った方がいいかもしれない。ぼくは「反体制」ですらない。アンチを立てて思考する「弁証法的思考」も何十年も前に「卒業」した。アンチといって「敵」の土俵には乗らない。