「子どもとおとなの訪問看護師」になった日その②
ヤングケアラーという言葉は
いつから出来たのだろう?
私は今でいうヤングケアラーであった。
母はいつも
何かに怒っていた。
お酒が無くなると学校から帰ってきた私に
小銭をたくさん渡して
缶チューハイの自動販売機で
5本、10本と買ってきてと頼んで
了解!とばかりに買いに走った。
なぜ、自動販売機?
酒屋のおっちゃんは、私のことが心配で
学校に相談していた。そしておっちゃんは
私が買いにきても
お酒は売らないようにしていたことは
地元を離れ、少ししてから知った。
その頃は「なんで売ってくれへんねん」って
子ども心に腹が立っていた。
今となれば、私が育った地域は
沢山の「おとなの目」があったのだなと
感謝している。
母のお酒の量は
年々増加していたように思う。
最初は缶チューハイを買いに行くだけだったのに
母が吐いた吐物の処理、失禁の処理
最終的には立てなくなった母を
お風呂に引きずって、洗うぐらい。。
母はお酒によって人が変わったようになった。
父は忙しく、見て見ぬふり。
私は悲しいとか寂しいとか
そういう感情ではなく
なぜ、母はこんな生き方しかできないのか?
私が行っていることはまちがっているのか?
いつもいつもなぜ?なぜ?と
考えるこどもだった。
ある日。
弟の手を引いて少し離れた保健所に
「私がしていることはおとなから見てどうなのか?」と
聞きに行ったことがあった。
確か、私は4年生。弟は1年生。
「相談があります」
「どうしたのかな?お母さんは?」
そう言われたので
「母について、相談です」
と、伝えると
奥から年配の男性がでてきて
「お母さんかお父さんと来なさい」
と、追い出された。
「お母さんのことなのに
お母さん、どうやって連れてくるねん。アホ」
心の中で呟いて
弟と石を蹴りながら帰った。
「お腹すいた」
弟がぐすり出した。確かに17時。
家帰っても何もない。
「今日はついてない」
よく通る、たこ焼き屋さんがシャッターを閉めようとしていた。ふと、おばちゃんと目があって
手招きされ、弟と近づいたら
売れ残ったたこ焼きを6個ずつくれ
中で食べなさいとシャッターを開けてくれた。
弟が私の顔をチラチラ見て
食べていいの?って聞くけど
私は返事をしなかった。
するとおばちゃんが優しく「食べね」と弟に声をかけ
弟は嬉しそうに食べ始めた。
「お母さんのことあんた、心配やねんな」
そう言われた瞬間、わーわー泣いた。
弟もつられて
泣き出すと、おばちゃんが小麦粉臭いエプロンから
タオルを出して顔を拭いてくれた。
おとながこどもを心配するように
こどももおとなを心配する
けれど
こどもだから何も出来ないねん。
そう言った覚えがある。
子どもたちにこんな想いをさせない為には
おとなたちのこころと身体が
幸せでなくてはいけない。。。。
「おとなと子どもの訪問看護師になった日」
あの日の私は
今の私よりも
ずっとずっと「人にケアすること」の重みを
小さな体で感じていたのだと思う。
次回は
お看取りについてお話ししたい。
では、またの機会まで。。
おやすみなさい💤
「