桜の木の下で。【しめじ氏cover小説】
4月。
夕暮れはまだ冬の名残があって少し肌寒い。
川の向こうに陽が沈んでいく。
川面は静かに茜色を薄めた様な綺麗な彩りを写している。
桜の木の下にはひとりの老婆。
上着を抱き締めるように立ち、遠方遙か彼方を見つめている。
わたしの祖母の『妙』ばぁちゃん。
母からお祖母ちゃんを迎えに行ってきてと頼まれる。
春が来る度の日課になってきた。
桜の蕾が開く頃。
お祖母ちゃんはお昼を食べた後、この木の下に来て、遥か遠くを見ている。
「ねぇねぇ、お母さん、お祖母ちゃんは桜の木の下でいつも何やってるんだろね?」
「お祖父ちゃんを待っているのよ」
桜の木の下は待ち合わせ場所。
あの人は時間を守れない人だから。
『まだ、この時期は少し寒いわねぇ』
川辺から吹く風に桜の花びらが舞う。
待つのって私は好きなのよ。
だって、あの人のことを考えていられる時間でしょう?
来たら……温かい紅茶を飲みましょうね。あなた。
お祖父ちゃんは10年程前に他界した。
毎朝、仏壇に手を合わせ、お昼を食べて此処へ。
手には水筒に入れた紅茶を持って。
お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは本当に仲が良かった。
お祖父ちゃんはズボラで何でもお祖母ちゃんにやって貰っていたのに、お祖母ちゃんが文句を言う事は無かった。
お祖父ちゃんが亡くなった日。
棺の前で『私も連れてって』と大泣きしていたお祖母ちゃんを忘れられない。
葬式の次の日には、いつものお祖母ちゃんで母もそれを見て安心していたと……言っていたのに。
周りの木より一際大きい桜の木。
その下のお祖母ちゃんまでゆっくりと向かっていく。
時折吹く風に目を細めながら。
お祖母ちゃんはいつものように遥か遠くを見つめたまま。
わたしの存在が無いかのように。
それがいつも悲しくなる。
「お祖母ちゃん、寒くなってきたからお家に帰ろ」
お祖母ちゃんは動かない。
遠く遠くから視線を戻さない。
「陽が暮れるよ、一緒に帰ろ。ね?」
反応がない。これもいつもの事で。
お祖母ちゃんの肩を抱き、向きを変えて手を引く。
皺だらけで骨張ったお祖母ちゃんの手は、強く引っ張ったら崩れてしまいそうだった。
「あなた……早く私を迎えに来て……」
夕日を振り返ってお祖母ちゃんはそう呟いた。
風に舞った桜の花びらがお祖母ちゃんの髪にとまり、また飛んでいった。
次の年。お祖母ちゃんは桜を見ることなく、家で静かに旅立った。
焼かれて灰になったお祖母ちゃんの一部を綺麗な巾着袋に入れて、あの桜の木の下へ持って行った。
「此処で会うんだったよね、妙お祖母ちゃん」
一緒に持ってきた小さなシャベルて桜の木の下を掘って、巾着袋を埋めた。
わたしは手を合わせて心から祈った。
ーーまた此処でふたりが出会えますように。
桜の木の下にお祖母ちゃんを連れて来たら、旋風が桜の花びらを空へ舞いあげて陽の光と合わさった。
光の粒子が降り注ぐように桜の花びらが舞い降りてくる。
ーーあ、そうなんだ……。お祖父ちゃんは……『風』なんだね。それで、お祖母ちゃんが桜になったから……。
更に旋風は桜の花びらを空へと舞いあげる。
ーー迎えに来たんだね、お祖父ちゃん。
ごつごつとした手に引かれて、川沿いの道を行く。
時折、足を止めて。
水筒の紅茶を飲むんだ。
あったまるね、美味しいねと言いながら。
「遅いんだから、あなたは」
妙さんはそう言うと微笑んだーー。
今年も桜が咲く。
あの優しい桜色が今年もあのふたりを包んでくれていると信じて。
[完]
こちらの企画に参加させて頂いております。
よろしくお願いします🙏