短編小説 『枕に語る』
『―――おなか、痛いな。』
俄かに痛みだしたお腹を押さえながら、新しく出したばかりの羽毛布団の端をギュッ……と掴み、冷えた脚を折り畳んで、お布団の中で丸くなる。
外はきれいな満月で。
風も雲もない晩夏の夜中には、もう虫たちも寝静まっていて。
枕元のデジタル時計からは、普段は絶対に聞こえない、 「じー…… じー…… 」という作動音が聞こえています。
『おなか、痛い。』
いえ。或いはこれは、腹の痛みで研ぎ澄まされたわたしの五感のせいなのかもしれませんね。
兎に角。
新しく出したばかりの羽毛布団からは「タンスにゴン」の樟脳(しょうのう)と、二人分の汗の匂いがしていましたし、窓から差し込むくっきりとした月明かりは、秒速460mで回る地球の自転速度によって、お布団の端をギュムリと握りしめたわたしの拳から遠ざかろうとしていました。
生理不順な今日この頃。月のものの痛みは耐え難く、まるで大きな金槌(かなづち)で腰のあたりをズンっと小突かれているような、そんな感じなのですが―――。
……おかしい。
生理の痛みは、少し前に収まったはずなのに。
そして、この痛み。
月のものとは断じて違う。
例えば痛みとは、デイビット・ルイスは〝 火星人は、C繊維の発火によってではなく、体内の複雑な水圧システムの活性により痛みを感じる 〟と、阿呆のように論じていましたが、では、わたしのこの痛みとは、一体?
『―――おなかが、痛い。』
痛覚神経が受容する侵害刺激と異なる、とても嫌な情動体験。
わたしの苦痛を露と知らず。スヤスヤ安眠する同居人に少しばかりの怒りを覚えたわたしは彼の背中に爪を立ててみました。
*
この初老の同居人。
背中につけられた赤い筋にも気づかず寝ています。
彼とは本当にただの同居人としての間柄。わたしはまだまだうら若き乙女ですので、この安眠を貪る(むさぼる)同居人とはもう、それはそれは相当な年の差があります。
彼に拾ってもらう前、私はその日暮らしの家出娘でした。そして道行く優しそうな方に声をかけるのです。
もし宜しければ。
食べ物を頂けませんか。
お金は払えませんが、添い寝はできます―――と。
断っておきますが、この同居人と肉体関係を結んだことはありません。大学を浪人中の彼の息子とも。
いえ、奥様や娘さんに悪いだとか、彼らが不能だとかということではありません。ただお互いに性的な興味を抱かないだけ……。
同居人がうなされている。
昼は、いささかばかり難物(なんぶつ)な小説家の彼も、夜うなされている顔は子供のよう。
……こんな顔を見せられたら、さっきつけてやった背中の赤い筋が申し訳なくなるじゃないか。
そう思ったわたしは、愛しの彼の額に頬すりしました。そして、お腹の痛みは次第に強くなっていきます。
わたしは考えました。
腹の痛みには、きっとなにか原因があるはずです。昨日の出来事を思い返してみました。
昨日は朝から畳でゴロゴロしておりましたし、お昼だって、小説家の彼の膝に頭を乗せ、背中を撫でられながら、気持ちよくウトウトしておりましたし。
わたしは、はっとしました。
思い当たるとすれば、〝あれ〟でしょうか?
*
こんな家出娘のわたしにも恋人がおります。隣に住む、少しばかり年上のあのお方です。
恋の始まりはやや強引でございました。いつだって情慾(じょうよく)が先立つあのお方は、わたしの身体が成長仕切る以前から盛んに生々しい発情行為に及んできました。
えぇ、えぇ。
勿論、はじめは頑として貞操を守っておりましたよ。しかし、わたしとて女なのです。いつまで経っても手を出してくれない難物な小説家や軟弱な浪人生の息子に焦れったい気持ちを持ち始めた頃にはすでに、わたしの身体は女として男を迎える準備ができていたのです。
隣に住む、少しばかり年上のあのお方の執拗な発情行為を遂に許してしまったその日、溜まりきった若い性が花火のように、狂い咲いたのでした。
昼も、夜も、家人の目も気にせず重ねる逢瀬(おうせ)は甘美そのもの。
その様子を見て不快な顔をする奥様と娘さんをほくそ笑みながら行為に及ぶわたし達。
お恥ずかしながら、昨日の夕方も、わたしたちは庭の藪で激しく燃え上がっておりました。
最近のあのお方の勢いは、本当にすごい。
まるでこの世の終わりが来るのを密か(ひそか)に知っていて、その前に自らの生と性を必死に花咲かせようと、腰振る猛烈な勢いに股の痛みと物悲しさと快楽が綯い交ぜ(ないまぜ)となって絶頂に果てたわたしは遂に意識を失ってしまいました。
―――目が覚めた時。
辺りは暗くなっていて、わたしは誰もいない部屋で寝かされておりました。
部屋の隅には、きっとあの難物で優しい同居人の計らいなのでしょう。そっと、わたしの食事が置かれております。
わたしは、泣きに哭きました。
このスケベでいやらしい女に、醜く発情した女に、慈愛を持って接してくれる優しい同居人に。
*
―――難物で、小説家で、初老の同居人の意気地のない愛情に胸を打たれたわたしは今、腹の痛みを耐えながら、暖かい布団の中で、まだ柔らかい若い身体を必死にクネラせ、寝ている初老の同居人への愛を密かに奉祀(ほうし)しています。
『……腹の痛みは罰。若さと性に溺れた愚かなわたしへの罰。』
本日二度目の絶頂を迎えたわたしですが、同居人は全く起きる気配がありません。わたしはふと、窓から聞こえる掠れた音に気づきました。
――― カリッ… カリッ… ―――
……あぁ
わたしの恋人がやってきた
わたしを辱める野生の魔物がやってきた
わたしの弱いところを知り尽くした性欲モンスター
いけない
性の快楽に溺れるなど……
いや、でも
でも、あと一度くらいなら
駄目だ駄目だ
わたしは知っている
あの方は魔性なのだ
わたしはもう裏切らない
この同居人を、そしてこの家を
でも、最後にあと一度だけ……
いやいや!
何を言ってるんだ
ちょっとでも扉を開けば、あの方は滝のように避けがたい快楽を押し付けてくる
でも、私の弱いところを知ってるのはあのお方だけ
やめろ!
扉を開けるな!
でも、でも
戸に手を掛けるな!
でも
あぁ―――
わたしは遂に扉を開けた。
スルリと滑り込む、柔く(やわく)白い身体。鈴の付いた首輪。隣に住むあのお方。磯野家の〝タマ〟がいた。
『―――今宵は、満月。濡れ火照った貴様の身体を鎮めてやろう。』
神妙な顔をするタマ様が、首の鈴を、チリン…… と鳴らし、わたしの背に手をついて馬乗りになるのを感じながら、まだ寝ている呑気な同居人の枕に向かって、わたしは一声だけ鳴きました。
――― ニ ァ ォ ォ ン … ―――
腹の痛みなどどうでもいい。
慈愛の優しさなどどうでもいい。
ただ野生のエロを感じたい。
気が失せるほどの激しさを。
わたしは、伊佐坂家の飼い猫。
磯野家のタマに強引に開発された、淫らで若い、雌のペルシャ猫です。
[おわり]
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