#数学ダージリン (5967字)
どうしようもないことって、あると思う。
楽しみにしていた遠足が、雨で中止になったり、大事な発表会の日に限って、渋滞に巻き込まれたり。
それが、例えば、寝坊してしまったとか、忘れ物をして取りに帰ったとか、そんな風に自分のせいだったりするのならば、それは仕方がないことだって納得もいくのだが、〝仕方がない〟 と、〝どうしようもない〟 とは、少し、違う気がする。
どうしようもない、という気持ちは、自分の力が及ばないことを認め、諦める、弱者の心に沸くのだろう。
弱者とは、この物語でいうところ、つまり、わたしのことだ。
わたしにとって、この世界は、 〝どうしようもない〟 で、溢れている。
朝のラッシュアワー。
わたしが乗る電車は、始発の田舎から、都心へ向かい、走っていた。わたしは、満員電車の車両の中、扉に押し付けられながら、窓の外を見ていた。川や、田んぼだった景色が、都会のビルへと変わっていくのを、わたしは見ていた。
わたしは電車の扉の硝子に、おでこをくっつけた。秋の朝に冷やされた硝子が、ひやりと、心まで冷やしていくのを感じた。
わたしは、目を閉じた。
そして、職場の同僚のことを、思い出していた。
同期の、タブセ。
特別、可愛いわけでもなく、仕事は要領が悪いし、物覚えは、最悪。いつも、部署のお荷物な、タブセ。
同期は、わたしたち二人だけだったから、タブセが起こした厄介事を、いつもわたしが尻拭いする羽目になった。
大変だったね、って?
いやいや、勘違いしないでよ。これは、わたしが望んでやっていたことなんだから。
同期の、最悪に要領の悪いタブセをサポートする、優しいわたし。タブセは、わたしを頼った。みんなが、わたしに、タブセの厄介事の処理を頼っていた。
わたしは、タブセに比べて、可愛くて、空気が読めて、要領が良くて、コミュ力が高くて仕事ができて、そりゃあ胸はタブセに負けてたけど、でも、その他すべての点で、わたしはタブセに勝っていた。それは、絶対、揺るがないはずだった。
「後藤ちゃんって、タブセのこと、意識してるよね。」
ラブホの風呂の中、彼と抱き合っていたときのこと。彼の言葉に、わたしは、一瞬、ドキリとした。
「え、そんな風に見えます?」
わたしは、とぼけて、そう言った。
「なんつーか、計算高い気がして、女って、こえーな、って。」
そんな風に、見えていたのか。
彼は、職場の先輩だった。見た目が良くて、頭もいい。みんなが、彼のことを狙っているのを知っていた。わたしは、同じ部署だということと、タブセの厄介ごとの相談なんかで話す機会が多くて、その他大勢のライバルに比べ、当時、一歩も二歩もリードしていた。と、思っていた。
「タブセ、そんなにわりぃ奴じゃねえじゃん。」
彼のその言葉の真意が、わたしには、そのとき、よくわからなかった。
「そうですね。素直だし、とても一生懸命だし。」
ていうか、そういうとこがダメなんだよ、とわたしは思った。
女は、同調しなきゃいけないの。タブセみたいに、バカ素直な女なんて、迷惑なんだ。一生懸命やられると、わたしらがサボってるように見えちゃうじゃんか。
彼は言った。
「タブセの指導、おれも手伝うよ。」
彼の申し出は、正直ありがたかった。わたしだって、自分の仕事ができ始めていたし、タブセのお守りが、精神的に辛くなっていた頃だったから。
電車のアナウンスが聞こえ、わたしは、目を開けた。電車が止まり、扉の周りにいた人たちが、まるで津波のように、ホームへ流れ出ていった。
わたしは、客の波に飲まれないように、扉横の手すりに必死に捕まっていた。波は、去り、そして、また人が乗り、車内は先程と変わらぬ景色となった。
扉が閉まった。車輪は唸りを上げて、電車は速度を上げていった。カーブに差し掛かると、車体は大きく傾ぎ、わたしは、扉に押し付けられた。
「最近、連絡、くれませんね。」
とある残業の日、先輩と二人きりになったわたしは、先輩に言った。
「先輩、今度の休み、一緒にプール行きましょうよ。わたし、新しく水着買ったんです。先輩に見てもらおうと思って。」
わたしは、知っていた。先輩は、今度の休み、タブセと山登りに行くって。わたしは、タブセから、先輩との拙い恋愛相談も受けていた。勿論、わたしと先輩との関係は、言わない。そして、面白半分で、部署内の女子にも、タブセの恋模様をリークしていた。
「ねえ、どうせ、 〝大した用事もない〟 んでしょ? プール行きましょうよ。水着ですよー。」
タブセと山登りなんて、大した用事じゃない。そうですよね? 先輩。
先輩は、なにも言わず、パソコンに向かっていた。
「ねえ、先輩。不細工なタブセなんか、切っちゃいなよ。言いにくかったら、わたしから、言いましょうか?」
タブセと、わたし、先輩は、きっとわたしを選ぶと思っていた。だって、わたしのほうが可愛いし、仕事だってできるし、エッチだって、先輩の好きなフェラチオだって、先輩は、上手って褒めてくれたし。先輩は、言った。
「わりぃ。お前、もう、タブセと関わんな。」
「え?」
「あいつのこと、お前らは、なんもわかっちゃいねぇ。あいつが、いつも、仕事帰りに泣いてることも。お前に遠慮して、緊張して、ミスばっかしてしまうのも。」
先輩、おかしいじゃん。なんで不細工なタブセを庇うの。わたしがいるじゃない。
「タブセは、ただ優しすぎるだけの女なんだ。お前らに、あいつのことは、任せられない。おれが、あいつを守る。」
「なに、それ。ナイトみたい。気持ち悪。」
声が震えているのは、わたしのほうだった。ウソと言って、先輩。
「お前、タブセの相談事、部署の連中にリークしてたろ。いじめだよ、そういうの。気持ち悪いのは、お前のほうなんじゃね?」
タブセは、仕事を辞めた。
程なくして、先輩もいなくなった。
タブセがいなくなって、暫く経った頃、わたしは部長に呼び出された。
部長は、言った。
「―――旧姓・タブセさんが、社内いじめを受けていたとの告発がありました。部署内の調査によって、あなたがいじめの首謀者であったと、多数の証言を得ることができました。」
あまりに突然の宣告だった。わたしは理解が追いつかないまま、旧姓ってことは、タブセ、結婚したんだなあ、とか、結婚式、呼ばれてねーじゃん、とか、やっぱ先輩も胸が大きい子が好きだったんだなあ、とか考えていた。
「後藤さん。」
「はい。」
「タブセさんのいじめのついて、身に覚えはありますか?」
覚えって言ったって、相談されたり、仕事を手伝ってあげたり、そんなことで―――。
「相談事は、よく受けていました。」
「そうですね。当時、面倒見の良い子が同期にいてくれて助かったと、我々も思っておりましたから。」
そうだよ。わたしが、あのグズでのろまなタブセをコントロールしていたんだ。あんたたちだって、感謝してたじゃない。だいたい、相談だって、いっぱい乗ってあげたし、プライベートなことだって、いっぱい、いっぱい、いじめだって? 思い違いも甚だしい。
「私的な相談事を、面白半分で、部署内の人間に見せて回ったりしていたそうですね。」
えっ―――。
「あなたの部署の女性社員全員が、当時のことを振り返って、あなたの行動に迷惑していたと証言していました。これでも、身に覚えがないと?」
部署の女性社員全員は、タブセのいじめの責任を、わたし一人に背負わせたかったようだ。
わたしは、いじめを認めた。わたしは、もう、どうでもよくなっていた。今更、どうしようもなかった。無駄に、足掻くのはよそうって。
だが、話はそれで終わらなかった。いじめの次にターゲットに、わたしが選ばれたからだ。タブセのいじめの罪をわたしになすりつけた罪悪感と、歪んだ正義感が、彼女たちの心に火をつけた。
彼女たちのわたしへのいじめは、徐々にひどくなっていった。SNSに、わたしの写真と「すぐ、ヤれます。」の一言がアップされていたのを偶然見つけたわたしは、辞表を出した。
これは、どうしようもないことだったのだろうか。それとも、わたし自身の問題だったのだろうか。
わたしは、電車に揺られながら、硝子の外を見ていた。外は、雨が降り出していた。
もう終わったことだ。
わたしは目を閉じた。
電車は、猛スピードで走り続けていた。雨が、硝子を叩くのが、分かった。冷たい硝子越しに、微かな振動を感じていた。
SNSの通知が鳴った。
わたしは目を開けた。
わたしの写真がアップされてからというもの、アカウントをいくら変えても通知が来るようになっていた。
特定アカウント[#数学ダージリン]
ふざけた名前しやがって。
わたしは、通知を消した。
どうしようもないことって、やはり、あるんだろうなあ、と思う。
そりゃあ、タブセをいじめたことだって、先輩に振られたことだって、部署内の女性社員全員を敵に回して酷くいじめられたり、「すぐヤれる女」ってSNSにアップされたり、特定アカに付け回されたり、会社を辞めることになったのだって、元はわたしにも責任があることなんだし、そうならないように上手く立ち回ることだってできたはずなんだ。
でもさ。未来は、予測なんてできないから。過ぎてしまった過去の清算は、やっぱり、どうしようもなく、しなきゃならないことなんだろう。
また、通知音が鳴った。わたしは、通知を切った。硝子に写る男が、こちらを見ていた。
気持ち悪い。
わたしは、目を伏せた。
外は、雨が強くなっていた。電車の照明が、一瞬、チラつくのが分かった。雷でも落ちたんだろうか。次は、もっと近くで雷が鳴った。電灯は、ついに消えた。灯りの消えた満員電車の車内は、薄暗く、狭い。硝子に写る男は、まだ、わたしを見ていた。
電車は、短いトンネルに入った。車内は、ほんの一瞬、闇に包まれた。
僅か数秒経った後、トンネルを通過した電車の車内に、薄明るさが戻った。外は、相変わらずの雨だった。雨粒が、硝子を叩く音がしていた。
電灯は復旧した。車内に明るさが戻った。硝子を見ると、もう、男はいなかった。きっと、気の所為だったんだろう。わたしは、肩の力を抜いた。
スマホを持つ手が、固く握り込まれているのに気が付いた。実は、ほんの少し怖かった。これ以上、悪いことは、起きてほしくなかった。
わたしが顔を上げると、硝子に写っていた男が、わたしの眼の前に立っていた。
男は、ナイフを取り出した。
男は、左手でナイフを持ち、わたしのお腹に、押し付けていた。男は、お腹の柔らかさを確かめるように、手首を返しながら、ナイフの背で、わたしのお腹をさすった。布越しに、ナイフの硬さを感じた。怖さから、息が吸えない。男は言った。
「騒ぐなよ。ヤリマン。」
ナイフの先が、シャツを裂いた。裂けたシャツの穴から、男は、手を入れた。ブラジャーが、乱暴にズラされた。
気持ち悪い。
誰か、助けて。
タブセ―――
電車の扉が開いた。
人の波が、わたしと男を引き離した。男から引き離される瞬間、脇腹に、鋭い熱さを感じた。
わたしは、痛みで、ホームに崩れ落ちた。わたしは、男に振り返った。男は、電車の車内に残り、わたしを見下ろしていた。
男は、言った。
「どうしようもないことだと思って、生きろ!」
どうしようもないことだと思って、生きろ! 仕事がなくなり、友がなくなり、オレみたいな人間に付き纏われて、腹を、刺される、そんな、どうしようもないクズが、お前だ! クズに、現状を変える力など、ない。全てを、どうしようもないと思って、生きろ!
扉が閉まった。
電車は走り去った。
薄れていく意識の中。誰かの声が、聞こえた。
わたしは思った。
どうしようもないのなら、どうも、こうも、しようがないじゃないか。どうしようもないことだと思って、生きるしか―――
白い天井が見えた。
次に、点滴がぶら下がっているのが見えた。
ああ、病院なのだな。そんな当たり前のことに気付くのに、随分時間がかかった。わたしが寝ている間、そばにいてくれた女性に、気付くにも。わたしは言った。
「なんで、あんたが、いるのよ。」
あんたは、会社を辞めたじゃないか。先輩と結婚して、幸せになったんじゃないか。あなたをいじめたわたしのことを、あなたは嫌いだったんじゃないか。
タブセは言った。
「同期の仲じゃない。いてはいけない理由なんて、ないよ。」
タブセは、少し不機嫌そうだった。おかしいな、こんなにふてぶてしい態度をとる子じゃなかったはずなのに。
「あんた、少し、変わった?」
「そうかもね。」
「別れたの?」
「こっちからね。」
「あんたもやるじゃん。」
女癖の悪かった先輩は、タブセと結婚する前、部署の多くの女性と関係を持っていた。わたしがいじめられたのだって、先輩への愛憎の捌け口が、必要だったってこと。
「どうしようもないクズだったわ。」
そう言って、タブセは、慣れた手つきで煙草に火をつけた。
おいおい、ここは病院だぜ、タブセちゃん。
タブセの変わりぶりに度肝を抜かれたわたしだったが、なんてことが言えなくなるくらい、タブセの吸いっぷりには貫禄があった。要するに、クズだけど。
わたしは言った。
「〝どうしようもないことだと、思って、生きろ〟 か。」
「なにそれ、誰の名言?」
「#数学ダージリン。」
「誰だよ、それ。」
「チカンで通り魔。」
眉を顰めたタブセは、煙草の火をベッドに押し付け、消した。よく見たら、ベッドの端は、焦げた跡だらけだった。床に散らばるセブンスター。タブセは言った。
「どうしようもないクズね!」
うん。あんたもね。
「顔は?」
「まあ、悪くないんじゃない?」
「紹介してよ。」
「いいよ。」
わたしはスマホを取り出した。
わたしが、チカンで通り魔でストーカーの特定アカウント[#数学ダージリン]のことをタブセと共有しようとしていたら、タブセが、「今なら、わたしら、うまいこといくんじゃね?」的なノリでわたしに微笑みかけてきたので、それになぜか苛ついたわたしは、こっそり、ナースコールを押してやった。
元気な新人ナースの声が聞こえた。
「うわっ、やっべえ、人が来る! てめぇ、その男はわたしがもらうからな! 後で、ちゃんと教えろよ!」
そう言って、タブセは、病室から出ていった。
タブセの変わりように少し救われたわたしは、[#数学ダージリン]に言われた言葉を思い出していた。
〝全てを、どうしようもないことだと思って、生きろ!〟 か。
余計なお世話だ、バカヤロー。
[おわり]
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