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乞食の耳にイカを詰めて腐らせたもののような臭いのする足を持つ和尚の話 (二)


 ある日のこと。〝すめる〟がお勤めする鰯田寺いわしだでらにとても偉いお坊様がお見えになることになったそうな。そこで誰がお経を読むのかと話し合いになった。そうすると皆が口を揃えて言った。

「すめる和尚にしか務まらん」

 すめるの足はとてつもなく臭い。だが、御仏に仕える僧坊が足の匂い云々で経の良し悪しを判断するなどあり得ない。経とは心。感謝の心で読むものなのだ。万物に対する感謝の心が南無阿弥陀仏に救いの法力を授けるのだ。

 もう一度言うが、足が臭いくらいで経の良し悪しが左右されるなど万に一つもあるはずがないのだ。

 すめるが皆に推挙された日。常日頃から物静かなこの男は、珍しく人前で涙した。すめるは嬉しかったのだ。己の頑張りと積み上げてきた徳が、寺の者共から認められたように思えたからだ。すめるは心から感謝した。並の人間なら思い悩むほどの足の臭いにすら、この時のすめるには御仏が与えたもうた試練であったと感じ、心から感謝した。

 無論、すめるとて足の臭いに思い悩むことがなかった訳では無い。そして、生まれたときから足が臭かった訳でも無い。厳しい修行を経て僧坊となったすめるは相応の人物であろうと修行に励み続けた。嫌なことも辛いことも足を踏ん張り、じっと耐えた。未熟な己では、足を踏ん張り耐えるしかないとすめるは知っていたのだ。

 ある時、すめるは己の足の裏の変化に気が付いた。足を踏ん張り耐えたとき、足の裏がじっとりと汗で濡れるのだ。その汗は、嗅ぐと、臭い。

 すめるは思った。

「辛苦も辛酸も、心ではなくおれの足の裏に溜まるのだな」と。

 それでいい。それでいいのだ。心に溜めれば、おれはいつか破滅する。辛さは足の裏に溜めておれば良いのだ。辛くとも、いつか吐き出す、その時まで。

 そう気付いてからというもの、すめるは足を踏ん張り耐えることに辛さを感じなくなった。辛さは足の裏が溜めてくれていた。そして、足を踏ん張り耐えるたび、すめるの足は臭くなった。言うなれば足の臭さはすめるが足を踏ん張り頑張った証なのだ。

 今のすめるは足の臭いを誇りに思っていた。すめるは足の臭い自分があるのは御仏と寺の者共のお陰だと思っていた。

「誠にありがたいことだ」

 こうして今日もすめるは感謝の南無阿弥陀仏を唱えるのだ。

 寺の者共は、この度の大役をすめる和尚が引き受けることに誰も疑問を抱かなかった。それに実際のところ、すめるは足がとんでもなく臭いだけで学もあり徳もあり人望もあるのだ。皆は思っていた。「誰が見ても恥ずかしくない法要となるだろう」と。

 もう一度言う。

 足が臭いくらいで経の良し悪しが左右されるなど、あり得ることではない。まして、重要な大役を外されることなど。



↓(三)へ続きます。

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