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エッセイ 『梶井基次郎 檸檬ごっこ』





 あなたは、秋がお好きでしょうか。

 あぁ、そうでしたか。
 いえ、急にお尋ねして、大変申し訳ありません。そうですね。わたしは、秋が、好きでありません。

 正確には、他の季節と比べて、そこまで好きではない、という程度ですが。




 夏の暑さを懐かしく感じてしまう今日この頃。大通りの道を歩いておりますと、街路樹が薄っすらと色づいきております。

 この辺りの八重桜など、色づくのが早いもの。カサコソと、音を立てながら、ハラハラ舞い下りる葉っぱの褪せた緑には、紅や黄が差し始め、アントシアニンとカテノイドが魅せる幽玄なる移ろいそのままに、季節の変遷を表しております。

 桜が、ほんの少し苦手なわたし。

 桜葉が、老いて色づき、更にそれが、虫の喰った穴ボコだったり、アスファルトに汚く散らばっていたりしたら、もう、胸がスカッっといたします。

 そうそう。

 〝あれ〟 を見つけたのも、キンと冴えた秋空の下、卑しく堕落した桜葉を、「うふふ、うふふふ」と、音をパリパリ鳴らして踏みつけながら、ポクポクとした西日を背中に感じていたときでしたね。




 わたしは今日、[花梨の実]を拾いました。




 学名〝Pseudocydonia sinensis〟

 〚バラ目バラ科シモツケ亜科ナシ連ナシ亜連カリン属カリンの落葉高木〛



 皆様、ご存知でしょうか。
 花梨(カリン)のことを。

 新緑、紅葉、樹皮、全てにおいて高レベルに美しい鑑賞木。良い香りの実は、はちみつ漬けや、リキュール漬け、果ては漢方に至るまで利用されています。捨てるところがない。それが、花梨の良いところ。

 なぁんてね。
 うふふふ。
 種、絶対に食べちゃだめですよ?



 わたしが彼を見つけたのは、仕事の休憩時間中、プラプラと、職場の庭園を散歩していた夕方頃のこと。

 剪定の時期を過ぎ、刈り忘れられ、長く伸びた芝の中、ポツンと黄色い肌を申し訳程度に覗かせていた、彼。




 カーンと冴え渡るレモンイエロー。
 丈の詰まった紡錘形。
 ヒヤとした温度に、鼻腔に打つ爽快な香り―――。




 おっと、これは檸檬のことでしたっけ?

 うふふ。梶井先生の『檸檬』をわざと引用したのは、情けなさそうに意気地のない[花梨の実]を、愛おしいと感じたから。

 [花梨の実]は、檸檬と比べられるのが、心の底から嫌みたい。彩度低めの緑っぽい黄色。卵を、ミョーンと伸ばしたような間抜けた形状。傷だらけで、ボコボコとした少しベタつく果皮。スンとする甘い香り。


 「わたし、あなたのこと好きですよ。」


 [花梨の実]を、職場の自室に連れて帰ってきたわたしは、拾われてきた仔犬のように所在なさげな様子の彼を少し可哀想に思い、そう声をかけました。

 『気休めは、やめて下さい。ぼくは、所詮、檸檬には敵いませんから。』

 [花梨の実]は、そう言って、そっぽを向いた。


 うふふ。
 バカみたいに強がっちゃって。
 あなた、本当に可愛いのね。


 少しニンマリしたわたしは、マスクの下で、ペロと舌なめずりをした。わたしの中の、胸の奥に隠してあった嗜虐心が、ついついこみ上げてきたのです。


 〝 虐 め た い 〟


 いけないことだとは、重々承知しております。まして、わたしは休憩時間中(とっくにオーバーしていますが)。勤務時間内に、神聖な職場で、こんなに健気で意気地のない甘い香りの[花梨の実]を虐めて悦に浸るなど、全く許される行為ではない、そう存じ上げております。

 しかし、そんなわたしの気も知らず、[花梨の実]は、言ったのです。




 檸檬は、いい。あのカーンと冴え渡る全てが、果実の真理だ。




 その言葉を聞くやいなや、わたしの中で、何かが弾けました。わたしは、[花梨の実]を乱暴に取り上げ、ガタガタと音を立てながら自室の机を陽の当たるところまで引き寄せ、丸善で売ってそうな分厚い本を書庫から抜き取り、机の上に、ブチ撒きました。


 生意気に。
 知ったふうな口を聞いて。
 あなたが、梶井先生の、何を知ってるって言うの。


 や、やめて。


 うふふ。
 あなたごときが、先生と、檸檬のことを語るべきではないのです。


 すみません、すみません。


 あなたが一番嫌がることを、してあげる。


 それだけは。
 お願いです。
 それだけは……





 ――― あぅっ! ―――




 西日が当たる窓際の机に、無秩序に積まれた、本の上。ストンと安置された[花梨の実]は、恍惚とも、苦しみとも言えぬ喘ぎ声を出し、果てました。


 うふふ。
 こうしてほしかったんでしょう。
 分不相応だと知りながら。
 自分が醜いと知りながら。
 それでも、爆弾のように乱れたかったのでしょう。


 熟れた望みの果てに果てた[花梨の実]を横目にし、机を動かしたり、分厚い本を積んだりして息が切れたわたしは、スマホを取り出し、カメラアプリを起動しました。


 や、やめて下さい。
 これは、あなたと僕だけの秘密にしてください。これ以上の辱めは、ご勘弁して下さい。


 泣いて懇願する[花梨の実]。


 ふん。
 見てほしかったんでしょう。
 撮ってほしかったんでしょう。
 これは、記念です。
 あなたの、分不相応な夢が叶った日の記念です。


 し、しかし。
 ものには、順序というものが。


 順序も何も、ありますか。
 檸檬の美しさを真理だと言うならば、季節が巡り、実をつけ、熟すことも、また真理です。



 ―――カシャカシャカシャ―――




―― あぅっ! ――






 こうして、わたしと[花梨の実]の[檸檬ごっこ]は終わりました。

 心なし、拾ったときより香りが立ち上がり、熟れ具合が進んだ気がするのは、わたしの気のせいなのか、どうなのか。



 彼は、後日、花梨酒にしました。

 美味しかったです。





[おわり]

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