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月を捲る 中 #シロクマ文芸部
「むかしむかしのお話です
あるところに 王子がいました
王子は お姫様に恋をしました
ふたりは国を捨て
いつまでも幸せにくらしました
めでたし めでたし―――」
病院の帰り道。
ぼくは、きみの街に向かっていた。
いつの間にか、きみの独り言を言う癖が、ぼくにも現れるようになっていて、ハンドルを握るぼくは、今もまた、いつものように、君と同じ独り言を呟いていた。
信号が、赤に変わった。
ぼくは、車を停め、助手席に置かれたメモ帳を手に取った。そこには、ぼくの病気のこと、これから先の未来のこと、大好きなきみのことと、きみと別れるべき理由が書かれていた。
ぼくの後ろで、クラクションが鳴った。信号が青に変わったことを、教えてくれたんだ。
ぼくが慌ててアクセルを踏み込むと、未開封のままドリンクホルダーに入れられていたお茶のボトルが、ちゃぷん―――、と音を立てた。
〝いつ、買った?〟
疑問に思ったぼくがお茶のボトルに触れると、まだ温かった。
「ああ、そうか。」
ぼくは納得した。
ついさっきのことも、覚えていられなくなったんだ。脳腫瘍は、ぼくの記憶を、どんどん溶かしていっている。
*
実は、ずいぶん前から、きみとの思い出は溶けてあやふやになっていて。そんなだから、ぼくは、きみとの会話にとても苦労していたんだ。
メモ帳を買って、何度も書いては読み直して。読み直すたび、メモ帳に書かれたきみに、恋に落ちて。
多分、ぼくの記憶は間違いだらけだったんだろ?
きみの戸惑う顔が、とても辛かった。
ぼくは、きみのアパートに着いた。
アパートから出てきたきみは、秋が深まりだした月夜には、頼りないくらい薄着で。
「今夜は冷えるのに。」
そう呟いたぼくは、カーエアコンをつけた。
*
温まりだした車の中。別れを受け入れたきみは、車から降りて、月夜の道を歩きだした。
ぼくは、メモ帳を開いた。忘れてしまう前に、今日の出来事を書いておきたかったんだ。
ぼくはペンを持つが―――。
「きみの名が、もう出てこないや。」
情けない自分が許せなくて、ぼくはハンドルを殴った。クラクションが一度鳴り、開封されないままのお茶が、ちゃぷんと揺れた。
ぼくは、車を動かした。
バックミラーに映るきみが、こちらを見ているのが分かった。なにか探すような瞳で、肩を震わせながら。
ぼくは、アクセルを踏んだ。
きみは、バックミラーから消え、車はどんどんスピードを上げていった。
信号は、青、青。
次も、ずっと―――。
どこに向かうんだろう。
記憶が消えていく、ぼくは。
ハンドルを握る右手が、赤黒く腫れて痛む。骨でも折れたのだろうか。
それもいい。
この右手の痛みが続く限り、記憶より痛みが、きみのことを、鮮明に覚えているだろうから。
ぼくは、折れた右手でハンドルを握りながら、メモ帳を探した。
どこにいった?
メモ帳と、ぼくの記憶は―――。
突然、強い光に包まれた。
ぼくは、光の中に、やっと見つけることができた。消えてしまった大切な思い出たちと、ぼくを見て優しく笑う、きみを。
そんなところにいたのか。
ずっと探していたんだ。
次は、どこに行こうか。
これから、ふたりの思い出を、たくさん作ろうな。
*
ぼくは、道路に寝転びながら、地面に転がるお茶のボトルを見ていた。
今夜は、冷えるから。そう思って買ったのに、きみに渡しそびれて、冷たくなったお茶のボトル。
遠くから、サイレンの音が聞こえた。
ぼくは、夜空を見上げた。
「むかしむかし
あるところに 王子がいました
王子は お姫様に恋をしました
ふたりは国を捨て
いつまでも幸せにくらしました
めでたし めでたし―――」
ぼくの独り言は、秋の月に、吸われて消えた。
馬鹿みたいだ。
こんなの、おとぎ話の中だけだろ。
そんなふうに、思いながら。