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月を捲る 中 #シロクマ文芸部






 「むかしむかしのお話です
 あるところに 王子がいました
 王子は お姫様に恋をしました
 ふたりは国を捨て
 いつまでも幸せにくらしました

 めでたし めでたし―――」




 病院の帰り道。
 ぼくは、きみの街に向かっていた。

 いつの間にか、きみの独り言を言う癖が、ぼくにも現れるようになっていて、ハンドルを握るぼくは、今もまた、いつものように、君と同じ独り言を呟いていた。

 信号が、赤に変わった。

 ぼくは、車を停め、助手席に置かれたメモ帳を手に取った。そこには、ぼくの病気のこと、これから先の未来のこと、大好きなきみのことと、きみと別れるべき理由が書かれていた。

 ぼくの後ろで、クラクションが鳴った。信号が青に変わったことを、教えてくれたんだ。

 ぼくが慌ててアクセルを踏み込むと、未開封のままドリンクホルダーに入れられていたお茶のボトルが、ちゃぷん―――、と音を立てた。


 〝いつ、買った?〟


 疑問に思ったぼくがお茶のボトルに触れると、まだ温かった。

 「ああ、そうか。」

 ぼくは納得した。

 ついさっきのことも、覚えていられなくなったんだ。脳腫瘍は、ぼくの記憶を、どんどん溶かしていっている。





 実は、ずいぶん前から、きみとの思い出は溶けてあやふやになっていて。そんなだから、ぼくは、きみとの会話にとても苦労していたんだ。

 メモ帳を買って、何度も書いては読み直して。読み直すたび、メモ帳に書かれたきみに、恋に落ちて。

 多分、ぼくの記憶は間違いだらけだったんだろ?

 きみの戸惑う顔が、とても辛かった。


 ぼくは、きみのアパートに着いた。

 アパートから出てきたきみは、秋が深まりだした月夜には、頼りないくらい薄着で。

 「今夜は冷えるのに。」

 そう呟いたぼくは、カーエアコンをつけた。





 温まりだした車の中。別れを受け入れたきみは、車から降りて、月夜の道を歩きだした。

 ぼくは、メモ帳を開いた。忘れてしまう前に、今日の出来事を書いておきたかったんだ。

 ぼくはペンを持つが―――。


 「きみの名が、もう出てこないや。」


 情けない自分が許せなくて、ぼくはハンドルを殴った。クラクションが一度鳴り、開封されないままのお茶が、ちゃぷんと揺れた。

 ぼくは、車を動かした。

 バックミラーに映るきみが、こちらを見ているのが分かった。なにか探すような瞳で、肩を震わせながら。

 ぼくは、アクセルを踏んだ。

 きみは、バックミラーから消え、車はどんどんスピードを上げていった。

 信号は、青、青。

 次も、ずっと―――。


 どこに向かうんだろう。

 記憶が消えていく、ぼくは。

 ハンドルを握る右手が、赤黒く腫れて痛む。骨でも折れたのだろうか。

 それもいい。

 この右手の痛みが続く限り、記憶より痛みが、きみのことを、鮮明に覚えているだろうから。

 ぼくは、折れた右手でハンドルを握りながら、メモ帳を探した。

 どこにいった?

 メモ帳と、ぼくの記憶は―――。



 突然、強い光に包まれた。

 ぼくは、光の中に、やっと見つけることができた。消えてしまった大切な思い出たちと、ぼくを見て優しく笑う、きみを。



 そんなところにいたのか。

 ずっと探していたんだ。

 次は、どこに行こうか。

 これから、ふたりの思い出を、たくさん作ろうな。





 ぼくは、道路に寝転びながら、地面に転がるお茶のボトルを見ていた。

 今夜は、冷えるから。そう思って買ったのに、きみに渡しそびれて、冷たくなったお茶のボトル。

 遠くから、サイレンの音が聞こえた。

 ぼくは、夜空を見上げた。





 「むかしむかし
 あるところに 王子がいました
 王子は お姫様に恋をしました
 ふたりは国を捨て
 いつまでも幸せにくらしました

 めでたし めでたし―――」




 ぼくの独り言は、秋の月に、吸われて消えた。


 馬鹿みたいだ。

 こんなの、おとぎ話の中だけだろ。

 そんなふうに、思いながら。





#シロクマ文芸部


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