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天使ニカ #シロクマ文芸部 #甘いもの
〝甘いものは食べません
常に努力をしています〟
掠れた小声でわたしは言った。当直明け。ぼやっとした頭を抱えて病院を出たわたしは、いつものルーティンで職場向かいのDenny'sでテーブル席に座っていた。
〝甘いものの誘惑には、負けません〟
もう一度、掠れた小声でわたしは宣言した。もちろん向かいの席には誰もいない。
朝10時過ぎのDenny'sは閑散としていて、窓側のテーブル席に40台くらいの上品なお姉さま方二人が互いの旦那や姑の悪口を言っているのが見えて、わたしと反対側のテーブル席には職人っぽい中年男性二人がコーヒーを飲んでいるのが見えるだけだった。
よく晴れた冬の朝。大きなガラス窓から斜めに差し込む陽の光が安物のカーペットを柔らかく照らす。陽の光をありがたく感じるのはあと幾日あるのだろう。
わたしはもう一度掠れた小声で〝甘いものなんて〟とテーブルの上の空気に話しかけた。或いはわたしが話しかけていたのは目の前のコーヒーカップなのかもしれなかった。Denny'sのアメリカーノ。黒くて香ばしくてさっぱりとしていて、当直明けの身体に優しく染みた。
「甘いもの、注文いたしませんか?」
コロコロとしたかわいい声でニカが話しかけてきた。ニカのすらっとした細い体型にDenny'sの制服がよく似合っていた。大学生のニカはモデルも兼業していると看護師が噂しているのを思い出した。
朝日を受けて今にも飛んでいきそうなほど綺麗なニカ。天使みたいなニカ。対して当直明けのわたしは寝不足で充血し青く落ち込んだ眼窩に髪を解いただけのボサボサの髪型。24時間空調で焼かれたザラザラの掠れ声。わたしの「―――甘いものは身体に悪いの。糖化って言ってね、細胞が老化して」という言葉を遮るように、天使のような笑顔でニカは言った。
「でも、食べたいんでしょう?」
「食べたいものを我慢するなんて、何のための人生ですか? そんな人生を送るために生まれてきたんですか? 先生は、なぜわたしを助けてくれたんですか? 自分に幸せになってほしくないんですか? 先生は幸せになりたくないんですか? 先生は、今、幸せじゃないんですか?」
笑顔でまくし立てるニカに圧倒されて、「ああ、ええっと」と言葉に詰まっていると、「これ、遅いけどバレンタイン」とバックヤードに引っ込んで戻ってきたニカがガサガサの袋を突き出してきた。中を見るとセブンのガトーショコラだった。
「これ、とても美味しいんです。でも、働いても、働いても、バイト代、学費に全然足らなくて。だから大好きだけど、月に一個だけにしようって。そこのセブンで買っていて。ちょっとずつ大切に食べていて。でも、先生にあげます。疲れてそうだから。どうか元気出して下さい!」
強引に手渡されたわたしは「ありがとう」とニカの好意を受け取った。でも正直なところ、お会計の時に「先生って、綺麗ですよね」と言ってくれたことのほうがありがたかったし嬉しかった。
包帯が巻かれたニカの手からお釣りを受け取りDenny'sを後にしたわたしは、ニカに貰ったビニール袋をガサガサ鳴らしながら池田駅に向かって歩いた。改札を抜け、梅田方面に向かうホームの階段を上がり、ベンチに座ってニカについて考えた。
ニカ。
君はなぜ、自分を傷つけるんだ。
やがてホームに電車がやってきた。梅田方面はこの時間でも乗客で混んでいる。当直明けの疲れた身体を早く休めたいわたしは急いで電車に飛び乗った。ニカが大切にしていたものをホームのベンチに忘れたことに気付かないまま。
その日を境にニカは診察に来なくなった。わたしは何も思わなかった。ただ「ああ、そうか」と納得しただけだった。しばらくして、ニカが空に飛んだと看護師たちが噂をしているのを聞いた。彼女は本当の天使になったのだ。優しくない世界を羽根揺らして飛び去ったのだ。
ニカは死んでしまった。