見出し画像

海パン野郎 #毎週ショートショートnote #世界一しょぼいタイムスリップ


 壁を蹴って水の中を進み出すと、ごうーコポコポと心地良い水音が聞こえた。わたしの大好きな瞬間だ。

 毎週泳ぎに通っていると一本目の踏み切りで調子の良し悪しが分かるようになった。両手と両足をぐいーんと伸ばして抵抗の少ない姿勢を保持する。姿勢は大事だ。調子の良い日は、身体の表面を水の膜が包み込み、滑るように泳ぐことができる。

 調子良く泳ぎきったあと、身体の芯から疲労がやって来るのは、人間が使うのを忘れてしまった筋肉をたくさん使うからなのだろう。重力に囚われた人間は魚のようには泳げない。普段は意識しない水の抵抗、浮力、粘性は邪魔者でもあるが味方でもある。彼らに逆らわず、上手く味方につけなければならない。これは仕事も同じ―――

「ねえキック教えてあげようか」

 泳ぐのに飽きたのでビート板を持ってプカプカ浮いていたら、筋肉質の海パン野郎が話しかけてきた。海パンはわたしの頭上でプールサイドに立っていた。パーカーを着ているのでインストラクターなのだろう。見下ろされるのが気に食わなかったので、「いいです、キックくらいできますから」とさっさと上がってしまった。

 ジムを出ると外は雪が降っていた。「さっきまで暖かかったのに」と、髪を乾かしきらずに出てきたことを後悔しながら車に乗り込んだ。エンジンをかけて暖まり始めた車内で「やっぱりキック教えてほしかったな」とさっきの海パンの顔が割と好みだったと思い返していた。でも時間は巻き戻せないし、タイムスリップもできないし、したとしても世界一しょぼいタイムスリップになりそうだからそれはもういいとして、次は素直にキックの仕方と連絡先を教えてもらおうと思う。

 我ながらチョロすぎるぜ。


[おわり]
#毎週ショートショートnote
#世界一しょぼいタイムスリップ


いいなと思ったら応援しよう!