かえるちゃん1002
借金をしてしまって とうとう支払いができなくなる限界まで達してしまったとき 動揺してしまい、どうしていいかわからなくなりました。 借りている金額が徐々に増えているのに、 今までと同じ生活を続けていました。 お金がないと思われるのが 恥ずかしとさえ思っていました。 そしてとても世間体を気にしていました。 もちろん親には言えません。 周りから見て、親から見て まじめで、いい子に見せないといけなかった 周りと同じようにしていなくてはいけない” というプレッシャーをかけられてい
こんにちは、ご無沙汰しております。 離島での生活や仕事の記事をかいておりました、かえるちゃんです。 7月後半からほとんど記事をかいておりませんでした。 といいますのも、昨今の感染症拡大に伴い 看護師として従事しておりまして、とてもではないですが、 noteに記事を書いている余裕がありませんでした。 8月ともなると、感染症対策の一つとして予防接種業務にも従事することになり、どんどんと疲弊していきました。 9月は少し余裕があったのですが、仕事のミスが目立ち精神的に追い詰めら
島で働いていて思ったことがあります。それは年配の人たちの体の大きさです。私が生まれ育った地域では、年を取っていくにつれだんだんと痩せていき、体の線が細く小さくなっていきます。 ですが島で入院している、高齢者の方々は、体つきが良く、体位交換するのに一人ではできないほど大柄でした。 食生活の違い私の祖母は年を取るごとに、肉類をほとんど食べなくなりました。魚も煮魚が少しとおかゆがほとんどで、食事の量は年々減っているような感じでした。身長も138㎝しかなく、90歳を超えたごろから
ヨロン島の病院勤務をしていた頃、都会から研修医の先生たちが数か月間の研修に来ていました。 研修医の先生は千葉や東京、北海道にある系列病院から来ていました。 ヨロン島は研修医の中でも一番人気で、研修先として出されると応募者が多数いるため奪い合いだったと言っていました。 なぜ?そんなに人気があるんだろう? その当時のヨロン病院の院長先生は、研修医でも仕事を任せるような感じで割と自由に仕事ができるような感じになっていました。 それでも病棟を任せるのですから、看護師から病状報
私が住んでいたヨロン島は高い山がなく、雲は通り過ぎて行ってしまいます。雨雲も通り雨のような感じで、すぐに去っていくようなところでした。 晴天が続く島夏になると、どこの地域でも晴天になるのがほとんどでしょう ですが、この島は本当に毎日雲一つない空が続きます。 海から見える水平線の奥で黒い雨雲を見たとしても、島を通らないことも ありました。 梅雨のジメジメ感高温多湿の状態で過ごしていると、体がうだってきます。 エアコンをつけると冷えすぎて、寒くなったりするので、温度調節が難し
私が生まれ育った地域は、雪国だったので 台風被害にあったことはありません。 ただし何年かに1度、大雪の被害にあうことはありました。 台風が発生 台風が発生した時点で、すでに海上に影響が出始めます。 海では少しずつうねりが出始めて、 漁をする人たちは台風情報に気を遣うようになります。 台風の予想進路についても 島民全体が気を張るようになっていきます。 食料が届かなくなるヨロン島のような小さな島になると、 港は小さく、湾内も大きくないため 船着き場にうねりが入り込み、 埠頭
のんびりした、島での生活。 こんな暮らしを望んでいたはずなのに、なんか物足りない。 そんな気持ちになるほど、島の生活に馴染んでいました。 話すのが早いもともとそんなに早口ではないのですが、それでも話をすると 島の人たちから 『喋るの早いよねー』 と言われることがありました。 なんでかな?と思っていましたが、”寒い地域で育つとあまり口を開けずに 素早く伝えるという風潮がある”ということを聞いたことがあるので、もしかしたら、地域せいが出ていたのかもしれません。 すぐに動
離島に暮らすようになってから、不便なことはたくさんありましたが、自然と慣れていくようになりました。 『不便』 そう感じることはあっても、便利だったころよりも楽しかった気がします。 不便さには楽しさを感じる。 諦めるという選択肢以前私はこんな記事を書きました。 その中で、”欲しいものはすぐに手に入らない”ということを書きましたが、 ”すくに手に入らない” それは大事なことなのでしょうか? ”時間がかかる”ということは、物が到着する時間が増えます。 つまり、待っ
私は島暮らしをする前、地方の田舎に住んでいました。 一時的に大都市に住んでみたこともあるのですが、環境に馴染めず、精神的に弱り果てたことがあり、すぐに地元に戻ってきました。 それ以来、地元を離れたことはありませんでした。 小さな外国、離島”島に行こう”と思ったのは、単なる思い付きでした。 どこか遠くに行きたくなったわけですが、 その選択肢の中に海外は入りませんでした。 それは ”英語が全く話せない” ”海外は怖い” ”何かあったらどうしよう” という先入観が強くて
病院での仕事の前に体調不良になってしまいましたが、職員の皆さんのやさしさによって救われました。 ここで仕事をしていくためには次のことが必要だと感じていました。 島の言葉を覚える島の人たちと交流をしていくためには、ヨロン語を覚えるのが必須だと思いました。島の年配の人たちは、リゾート開発時に標準語を学んでいるので言葉に支障はないのですが、それでもヨロン語から標準語を話そうとすると会話が止まってしまいます。 ヨロンの言葉は沖縄弁ににていますが、 独立した”ゆんぬふくぅば”とい
ヨロンの病院で働く前に、アパートに案内されました。 鉄筋コンクリートでできた2階建ての建物には 同僚の看護師のほかに、薬剤師さんが入居していると言われました。 隣の部屋に、ご挨拶するためにインターホンを押してみると、 明らかに島の人ではない雰囲気の女性が出てきました。 移住してきた人たちこのアパートに住んでいたのは、島外の看護師さんたちです。 引っ越しをしながら他の部屋の人たちに挨拶をしていると 『どこから来たの?』と聞かれました。 『北陸です。』 『へぇ~珍しい、
ヨロン島につくや否や、”海の色が青~い” と無意識に声に出ていたと思う。 私の生まれ育った日本海も海はきれいだったけど、それとは逸脱した青さがありました。 遠くまで海が青く、透き通った海辺に転がっているのは砂ではなく、サンゴの白い石、初めて見る光景の素晴らしさに唖然とするばかりです。 見たことのない屋根の家、放し飼いのウシが道を歩く光景。 どこまでも続く青い空と海、歌が流れてきそうです。 とにかく何を見ても唖然とするばかり。 『あぁ~今からここで暮らすんだ。』 こ
私が離島で暮らし始めたのは30歳の時でした。 その頃はインターネットもそれほど普及していなくて、 雑誌や旅行案内本などで島の情報を知る以外に方法がありませんでした。 鹿児島県の離島にしたわけ私は個人でノートパソコンを持っていて(Windows98)、仕事ができる島を探していた時に、たまたまヒットしたのが鹿児島県与論島でした。 与論島は沖縄県がまだ日本ではなかった頃、日本の最南端の地(奄美群島)として有名になりました。 (下記からは島の名前をカタカナ表記”ヨロン”と記述しま
高校卒業から准看護師として働いている中で、やはり正看護師になることが必要だと感じていました。それから年月が流れ、准看護師廃止に向けて制度が整っていきました。その一環として10年間のキヤリアがあれば通信制の看護学校に入り看護師国家試験を受けられることになりました。 (2018年からは7年のキャリアでOK) 入学のための試験入学願書、志望動機 作文(課題を指定されます) 勤めている病院の記入欄 筆記試験はなかったように思います。 看護学校1年目109万円の出費通信制とはいえ、
学校に入学が決まった後、勤めていた診療所が閉鎖になることになり、4月から無職になってしまうことがわかりました。 (この頃、リーマンショックで経済が大打撃を受けていました) ―― 離島で仕事探し ―― そのころ、私は離島で暮らしていたので、学校に行くために鹿児島までフェリーで移動していました。就職先はあったのですが、学校へ行くための休みを取るたび、 『正看護師になったとき、休日を返していくから休みが少なくなる』 と言われ、島で働くのをあきらめました。 ―― 地元に帰ること
仕事してた時はあんなに休みたかったのに… することがなくなると何かしたくなる。 おかしな話だ、 こんな時、発想力があったらと思ってしまう。 今の生活を楽しむようになれないかなぁ~