真言宗智山派 笠原寺 比丘尼 田村英華(たむらゆりえ)

2023年、得度して修行僧になりました。

真言宗智山派 笠原寺 比丘尼 田村英華(たむらゆりえ)

2023年、得度して修行僧になりました。

最近の記事

人の喜びを自分の喜びに

布施(ふせ) 六波羅蜜の一つである布施は、 他人への施しのことで、利他行の基本です。 金品や食事のほか、 教えや知識、労働などでも かまいません。 相手に安心や喜びを 与えるものであるならば、 どんなことでもよいのです。 布施を行うためには、 まず自分自身の欲や執着を捨てること、 そして、 惜しみなく施して、 それに対する見返りを求めないこと。 人の喜びを見て、 自分も喜ぶことができる。 そんな気持ちを持つことが 必要なのです。

    • 他者を救う心を大切に

      六波羅蜜(ろくはらみつ) 六波羅蜜とは、大乗仏教の代表的な修行をまとめたもので、 布施(ふせ) 持戒(じかい) 忍辱(にんにく) 精進(しょうじん) 禅定(ぜんじょう) 智慧(ちえ) の、6つからなります。 これは、自らが悟りを得るための修行である三学 戒(かい)...正しい生活 定(じょう)...精神の統一 慧(え)...智慧 に、人々に幸せをもたらす修行である 利他行(りたぎょう)を加えたものです。 つまり、悟りを得るためには、 自分の悟りを求めるだけでなく、

      • 極端な方法から離れることで悟りに近づける

        釈迦は、もともと王子として贅沢な暮らしをしていました。 やがて悟りを求めて出家し、厳しい苦行を行います。 しかし、苦行では、心身を痛めるだけで、 本当の悟りは得られませんでした。 両極端な実践 快楽と苦行と経て、 そのどちらでも真理は見つからないことに気づき、 釈迦は中道(ちゅうどう)を悟ったのです。 中道を実践する道として説かれたのが 八正道です。 それは極端な道にこだわり、 執着することがないようにするための修行なのです。 八正道‥‥仏教において涅槃に至るための8

        • 自らが悟るためには八正道をすべて行うことが必要

          八正道とは、道諦(どうたい)の 具体的な実践法として説かれたものです。 偏見を持たずに物事を正しく見る、 正しく考える、 無益な殺生を避けるなど 八つの正しい生き方を示したものです。 ※道諦(どうたい)→煩悩を断つことで苦しみから脱するための正しい修行 これらは、たとえば 物事を正しく見るためには 正しく考えることが必要であるなど、 それぞれに関わり合っており、 一つだけでは成り立ちません。 八正道は、自らが悟りを得るための修行であり、 やがて 戒(かい) ※正しい

          苦しみを断つための四つの真理

          四諦(したい)は、釈迦が解脱後に初めて行った説法です。 「諦(たい)」は真理を意味し、悟りを得るための 四つの真理ということです。 この世は苦しみに満ちていることを理解する苦諦(くたい) その苦しみは、様々な煩悩が原因であると知る集諦(じつたい) 煩悩を断つことで苦しみから脱することができる滅諦(めつたい) 滅諦に到るための正しい修行を説く道諦(どうたい) の四つからなります。 この四諦は正しい真理ですが、 般若心経ではそれにこだわりすぎると、 悟りへの執着を生

          喜捨(きしゃ)は見返りを求めない心

          喜捨は、 積極的に金品の施し(ほどこし)をする という意味でとらえられますが、 大乗仏教では「喜」と「捨」のそれぞれが 意味を持ちます。 喜は、 人の幸福を共に喜ぶ心。 捨は、 差別や執着を捨て見返りを求めない心。 慈・悲・喜・捨  合わせて四無量心(しむりょうしん) この4つの心を深く深く持つことが、 すべての人を救おうとする仏様の心を持つことに つながるのです。

          慈悲(じひ)の心が人を救う

          慈悲の「慈」は、 人々に分け隔てなく幸せをもたらすこと(与楽よらく) 慈悲の「悲」は、 人の苦しみや悲しみを取り除こうとする思いやりの心(抜苦ばつく) を表しています。 つまり、慈悲とは、 どんな人にも幸せになってほしいと願い、 人の苦しみを感じ取ってそれを断ち切ろうとすることです。 それは決して、 助けてやろうという思い上がった気持ちではなく、 心から人を救いたいという願いから 起きるものなのです。 大乗仏教の最も大切な教えといえるでしょう。

          渇愛(かつあい)は自分を苦しめるもの

          愛は、一般に他者への愛情など 好ましいものとしてとらえられています。 しかし、仏教では愛を自己中心的に 相手やものを求める心だと考えられます。 それは、喉の渇いた者が 水を求めるような強く際限のない欲求であることから 渇愛ともいいます。 渇愛は、 快楽や生存への執着であったり、 逆に生きる苦しみからの逃避であったりします。 この執着や逃避によって人々は苦しむのです。

          煩悩に向き合うことで、心を安らかにできる

          私たちの心を煩わせ(わずらわせ)悩ませるもの、、 それが煩悩(ぼんのう)です。 たとえば物事に満足せず、 貧る(むさぼる)ような欲望や執着(=貪欲どんよく) 自己中心的な怒り(=瞋恚しんに) 真理を知らないこと(=愚痴ぐち) などです。 これを三毒(さんどく)といいますが、 これ以外にも私たちは無数の煩悩を抱えて 生きています。 普段の生活でこれらを完全になくすことは 難しいかもしれません。 しかし、煩悩は心の平安を遠ざけるもの。 煩悩に向き合いコントロールす

          煩悩に向き合うことで、心を安らかにできる

          涅槃寂静に到ることがあらゆる仏教の目標

          四法印の一つである涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)は、 煩悩の炎が消え、苦しみのない安らかな状態のことを言います。 ※四法印・・・諸行無常、諸行無我、一切皆苦、涅槃寂静 お釈迦さまは この涅槃寂静の境地に到れば、 苦しみばかりのこの世で生きながらにして 生まれ変わることができると 説きました。 仏教には 様々な宗派があり、 細かな教えや修行は 異なりますが、 どんな宗派も 最上の安楽である 涅槃寂静に到ることを 最終的な目標にしているのです。

          涅槃寂静に到ることがあらゆる仏教の目標

          すべてが苦しみだと知れば、本当の安らぎに近づける

          一切皆苦(いっさいかいく) この世のすべては苦しみであるという考えで、 四法印の一つです。 例えば、 愛情は、幸福の一つと 一般に考えられていますが、 愛する人との別れや争いの原因になることもあり、 究極的には苦しみをもたらします。 仏教では、 このように どんなものもやがては 苦しみをもたらすと考えます。 すべてが苦しみという考えには 多くの人が抵抗を感じるでしょう。 しかし、 そのことを知れば苦しみから解放され、 真の安らぎを得ることができるというのです。

          すべてが苦しみだと知れば、本当の安らぎに近づける

          人の存在も実体がなく変化していくもの

          諸法無我(しょほうむが)も四法印の一つで、 どんなものも、固定的な実体(我)は持たず、 因と縁の関係の中で成り立ち、 変化するものであるということです。 般若心経の中でも 述べられたように、 自分という存在も決して 固定的なものではありません。 五蘊(ごうん)= 色受想行識 五蘊の集まりによって成り立ち、 その関係性によって 常に移り変わっています。 それは、 私達が自分だけでは生きられない存在であることを 意味しているとも言えます。 誰もがほかのものによって生

          諸行無常を知ることがよりよく生きる出発点

          仏教には四法印といわれる4つの 大切な教えがあります。 その1つが諸行無常です。 諸行無常とは、 世の中のすべての存在や現象は、 常に変化してとどまることがないという考えです。 無常に気付けば、 例えば財産や地位など、 一つのことにこだわり、 執着することが愚かとわかります。 また、 人の命のはかなさに気づき、 謙虚になり、 他者への思いやりが生まれます。 さらに変化する 一瞬一瞬の大切さも 感じるはずです。 諸行無常を知ることが、 よりよく生きる出発点になるの

          諸行無常を知ることがよりよく生きる出発点

          すべてのものは因と縁によって生まれる

          縁起(因縁生起) あなたが今ここにいるのは 誕生して 様々な人や環境に育てられたからです。 そして、 これからもたくさんの人と 出会い、環境が変わる中で どんどん変化していくはずです。 このように この世のすべてのものは 誕生のような因(直接の原因)と 環境である縁(間接的な条件)の 様々な組み合わせによって 起きるものだと考えるのが縁起です。 あなたが今いるのは 様々な因と縁のおかげであり、 また あなたも何かの因や縁になっているのです。