自分で見える範囲の白髪は見つけ次第抜いていましたが(本当は抜かずに切る方が良い?)、先日ふと思い立ち後頭部の白髪を抜いてほしいと夫に頼みました。 年をとりたくないとか年齢より若く見られたいとか、そんなことは思っていないと思っていました。でも白髪は気になって抜いてしまう。 やっぱり若く見られたいのか?いや、そんな単純なことじゃない。 抜いてもらった10本ほどの白髪を見つめながら、こんがらがった自分のことをもっとゆっくり丁寧にほどいてあげたいと思いました。
noteの更新も忘れるほど忙しない毎日を送っています。充実感は低めです。 うつ症状が大分長いこと落ち着き、長女の受験も無事に終わったので、自分の天職を見つけようと転職したところ、メニエール病からの急性感音障害(突発性難聴に近い)を発症し、抑うつ症状が再燃してしまいました。現在再び休職中の身です。 天職だと思って転職したのは営業なのですが、私には向いていなかったということを数ヶ月かけて思い知らされました。今までの自分の殻を破って新しい事に挑戦して、経済的に自立してみせる!と息
幼い頃、一人遊びが得意でした。 自宅の庭が広く日本庭園風のエリアや温室があったので、晴れた日は草花をスケッチしたり庭をぶらぶら歩いたり、雨の日は窓際で雨音を聞きながらうたた寝したりして過ごしました。また私が生まれた時すでに亡くなっていた祖父の書斎にこっそり入り、本棚などをのぞき見ては祖父の片鱗を感じ想像したりもしました。 私の中で「日曜日の音」があったことも鮮明に思い出されます。日曜日のテレビ番組、父の小言、小型飛行機が流している宣伝放送、キジバトの鳴き声。この退屈が永遠に続
このところ強盗事件が多いなと感じます。それが組織的な場合の実行役だったり単独の場合は、快楽のためではなく「生きていくため」にそれをやるしかなかったのかなと想像しています。 私はひどい抑うつのときに、「生きることを止めよう」と思った経験があるので、真逆の「生きたい」という強い渇望から犯罪に手を染めてしまうことは、ある意味ものすごく強いエネルギーなのだろうと思います。 自分の人生で、生きるために心血を注いでやりたいことはなんだろうと考える時間が増えました。 現在の勤め先は規模が
身内を亡くすことは誰しも経験することで何も特別なことではないですが、整理として文章に残してみたいと思ったので書いていきます。 父の死因は特定できず、医師の話ではおそらく脊髄梗塞ではないかとのことでした。亡くなる1~2年前に、酔って自宅の二階から転落し体を強打したことがあり、その後すぐに受診しなかったためゆっくり進行してしまったのではないかと。すぐに受診しなかった理由は、父は病院を受診するお金も治療する気も無かったこと、父と母は完全に家庭内別居の状態であったことです。 転落
noteを始めたときから仄暗い話が続いているので、少しだけハッピーな話を書いてみようと思います。 私が推しの存在に気づき推し始めたのは、2年半ほど前になります。たまたま見たyoutube動画で乙女心を思い切りわしづかみされ沼に落ちました。しっかりファンクラブにも入会し、日々推しを愛でながら生活しています。 うつ病を発症し抑うつ状態のときは、推しに対する気持ちも減退してしまい活動をチェックすることがまったくできなかったのですが、入院して情緒が落ち着いてきた頃には、夫に頼んで推
私がうつ症状を自覚して心療内科に駆け込んだのは、昨年2月のことでした。とにかく「この先も生きていくことが億劫、消えてしまいたい」という思考がループしている状態でした。 家族構成は子ども3人と夫と私の5人家族で、私はパートで週5日働き忙しない毎日を送っています。日常の中で何が発症した引き金になってしまったのかは、今でもはっきりとは分かっていません。現在も通院中です。 最初に心療内科を受診した際は、薬を服用しながら自宅療養しましょうと言われ、仕事を休職しました。会社に迷惑をかけ
二つ目のアルバイトは「キャバクラ」です。 この仕事は居酒屋でバイトしていたときのバイト仲間に紹介してもらいました。キャバクラ向きの華やかな容姿ではないのですが「〇〇さんでも大丈夫なお店ありますよ」と勧めてもらったのがきっかけです。やはり時給が良いからと安易に飛びついたのが間違っていました。 そのお店は池袋にあり、女の子がデニムとTシャツで接客する「カジュアルさ」がコンセプトでした。そして女の子の容姿についても、歌舞伎町のような雰囲気の子はおらず「普通の子」が多いので、私でも
独身の頃、上京し演劇活動のかたわらいろんなアルバイトを経験しました。その中でも強烈な思い出が残っているアルバイトを二つ書きます。 まず一つ目は「出会い系サイトのサクラ」です。 このバイトは先輩に紹介してもらいました。時給が破格の高さだったので、かるい気持ちで即決してさっそく指定の場所に向かいました。 新宿区の雑居ビルにたどり着き、おそるおそる中に入って受付らしきところにいた男性に話しかけると、奥の部屋に案内されました。 業種が業種なのでもちろん履歴書の提出はなく、簡単な説明
今からおよそ20年程前、就職活動の最中に私は舞台女優を目指すことを決めました。 高校の文化祭で友人とコントをやり、会場の爆笑をかっさらった快感というものを体が忘れることができず、「舞台に立つ人間になりたい」と安直な考えにたどり着いてしまったのです。 一度目に上京したときは、劇団のオーディションを受けてみたり、俳優さん主催のワークショップに参加してみたり、芸能事務所のお笑いコース志望者向けの講座のようなものに参加してみたり、自分なりに動いてみました。 芸能事務所のお笑いコースの
小学校低学年ころまでは近所の幼馴染たちと集まって遊んでいたのですが、だんだんと人付き合いにも広がりができて、他の友達とも遊ぶようになってくる頃、私は孤独を感じるようになりました。 いじめを受けていたわけでもないしクラスに遊ぶ友達もいたので、はたから見ると「厨二病?」と思われるでしょう。 実際何に孤独を感じていたのかというと「自分には本当の親友がいない」という点でした。 当時私が考えていた「親友」とは、お互いが無理をせず(どちらかが相手に合わせすぎることがない)、気が合い、つ
怒ると怖いけれど優しい時もある、そんな父の顔色をうかがって過ごしていた幼少期でした。 当時の家族構成は、父方の祖母、両親、兄2人と私の6人家族で、父は長男だったので祖母からはとても大事にされていました。 父はしょっちゅう母を怒鳴りつけ、皿を投げつけるなんてことも度々ありましたが、母はいつも言い返すことなく黙って耐えていました。 子どもなりにいろんなことがぼんやり分かってくると「ああ、うちのお父さんは普通のお父さんとは違うんだな」と思い始め、次第に「なんでこんな家庭に生まれてし
私の半生は正直あまりいい思い出ばかりではないのですが、振り返ってみます。 1983年生まれ ↓ (モラハラ父に怯えて過ごす) 短大2年生の就職活動時に、舞台女優を目指すことを決意 ↓ (父には仕事が決まったと嘘をつき許可を得る) 上京しアルバイトしながら活動してみるが早々に挫折しUターン ↓ (地元で就職した彼氏と結婚を意識して就職するも破局) 再上京し劇団の立ち上げから参加できることになるも、徐々に裏方仕事に ↓ (完全に自分を見失う。平日昼間は事務の仕事をしていた。) 職