幼稚園中退
私は縁あって7回も転職をしてきました。
縁あってお世話になった企業には今でも感謝しています。
転職の都度、履歴書を前にして自分の人生を振り返ります。
学歴は中学校卒業から大学卒業まで記載するのですが、この時、自分には「幼稚園中退」という歴史があったことを思い出すのです。
昭和30年台前半、父母と私の三人家族は大阪市西区川口町に住んでいました。
当時の住まいは、なんでも競争率の高い市営住宅供給公社の抽選に当たり、阿倍野区松虫から移り住んだのだそうです。
私は近くのキリスト教系幼稚園に通っていましたが、ある時、私が滑り台から落下するという事件がありました。幸い大した怪我はなかったものの、短気な母は幼稚園の管理不行き届きに激昂し、即、退園手続きをしたようで、その後、小学校に上がるまで、私はずっと自宅にいました。
母は、自分の子供は好きなのですが、子育てや家事は嫌いな女性でした。私は毎日、ひとりでテレビを見たり、市営住宅の屋上にあがり、あたりの景色をみていたように記憶しています。そこから、宮本輝の小説「泥の川」の舞台になった「昭和橋」が見えていました。
あるとき、一人で外に出て、道路に石を並べて遊んでいました。そこへ、日通のオート三輪が通りかかり、タイヤで弾かれた石が私のお腹にまともにあたり、しばらく、呼吸ができませんでした。
「死」というものをまだ理解できない年齢だった私は、どうしよう大変な事になったとでも感じたと思います。そんな事件があったことを両親に話したのは、ずっと先のことです。ただ、両親に怒られたくなくて、お腹の痛みや当たりどころが悪かったらどうなっていたかという恐怖心を抑えて、ひたすら、いつものように振る舞いました。
この頃、他にも危険なことを経験しました。
近所の小学校高学年のお兄ちゃんに市営住宅の5階から、逆さづりにされたり、工事中のビルの足場づたいに一人で3階まで登り、掴まるもののない道板から落下しかけたこともありました。一つ間違えばこの時、死んでいたかもしれません。なぜか、これらのことも、両親には言いませんでした。恐ろしさに泣くこともありませんでした。何が私をそうさせたのか、今でもわかりません。
幼稚園に行かなかったために、小学校以降の学習の基盤作り、交通安全の教育、安全な遊び方を学ぶこと、これらのことを全て、すっとばしてしまったのが私でした。