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院試が終わってすぐに葬式へ向かった話

 どうもこぐまです。院試が始まる一週間前に恋人と円満に破局を迎え、そして院試が始まる前日に祖母が亡くなりました。振り返るとなかなか自分でも破天荒な院試となりましたが、無事に試験も終え、祖母を見送ることが出来て何よりです。中々noteを書く機会がなく、ここぞという感じで書いてみましたが約二千字と中々長くなりましたが良ければご笑覧下さい。

 折角なのでTwitterに雑感としてネットの海へ消えさせるのではなく、少し長い文章として忘れないうちにここに書き記しておきたい。まず初めに自分の祖母は、私からすれば近づきたくない人であった。いつもあの人は煩く、また変に人に馴れ馴れしくそれでいて人付き合いが妙に美味かった。他所からすればこんな人もいるのかという感覚かもしれないが、身内の私としては周りにがなりたてたりしてる様に思える迷惑な人であった。

 ただそんな祖母も漸く死んだ。漸く、と言ったのには訳がある。それは当初、祖母は癌で余命数ヶ月と宣告されてからもう少しで10年に至る程の長い間を生きていたからだ。話題が高い抗がん剤やら放射線治療やら人の生きる死ぬ、財産といった嫌な話題をずっと聞かされてきた身としては、いつも死ぬ死ぬ詐欺の様に思っていた。ただそれは、10年以上前はまだ私が幼く良くわかっていなかったというのもあるだろう。とにかく、人は呆気なく死ぬのだ。

 恋人と別れて、まぁ何とかやるぞと思っていた院試を迎える前日に祖母が亡くなったのを聞いた時に私は「やっと死んだのか」というのが率直な実感だった様に思う。年始年末の家族が集う時にのみ顔を合わせ、その度に口煩い文句を言う人と言う実感もあった。衰弱しつつも、余命の宣告を幾つも乗り越えつつ、綺麗事では終わらない介護や痴呆の大変さをその度に実感した。痛みや苦しみで早く死にたいと言ってもいたし、ようやくお迎えが来たね、という感じだった。

 そんなこんなであまりショックを受けることはなく、なんだかんだで院試を終えて、そのまま通夜へ向かった。式場で出逢った祖母の魂が抜けて死んだ体は、常に"御尊体"という名前で扱われていて、死ねば糞袋の人間が、尊く扱われていて、不思議な感覚があった。それは、死ねば皆仏とはこういうことなんだなって。住職による勤行が後わってから、人々の故人についての談話があり、そして一夜明けてから焼く。

 人の葬式はまだ数回しか私は経験していない。それも小さい頃がメインだ。ただ、今になって思うのは、弔う事の大切さだった。死んでしまえば人間も動物も糞の詰まった皮袋でしかない。けれども、その人に残された家族や人々がどう向き合うかについて、故人は何も参加してくれない。お経を読んでもらって静かにむきあって、焼香をして、手を合わせて冥福を祈る。その弔う儀式という空間そのものが、残された人々が亡くなる事とちゃんと向き合うということなんだと。

 それでも、やはり死んだ人の身体は冷たく、少し硬くてびっくりした。我々は生きてこそ暖かいし、もちもちして柔らかい。そして、死ねば冷たくなり硬くなる。生きていてこそ、声を響かせ対話をする。死ねば声はなく、そこに尊顔があるだけ。生きていることが宝というのを文字通りに体感することは、きっとない方が幸せなのだろう。

 そして斎場へと皆で見送り、焼かれて骨になるまで見届けた。骨が出てきたとき、その匂いは炭火焼きの炭を起こした様な匂いがした。灰だ。BBQとかで身に纏うあの灰の香り。熱々の焼かれて出てきた骨をみて、こんなにも小さくなったねと思った。骨壷に収まった姿はとてもちっちゃく感じたものだ。思い出しても、人間とはかくも脆く、小さくなるんだと、よくわからない感覚に陥る。でも、祖母の住んでたお家に骨壷が帰ってきたときに、周りの「おばあちゃん家に帰ってきたよー」という掛け声は、不思議な暖かさがある。もうそこに居なくとも、骨だけになろうとも未だ一員として扱って弔ってもらえるのだ。

 そして、亡き故人の色んな話を色んな人として、原体験では整理のつかない故人への記憶が一つ固まる。自分もあまし好きではなかったが、なんだかんだで自身の祖母だったのだ。そして祖母は、なんだかんだで私の存在を喜ばしく思っていたんだろう。現代では家の縛りが鎖の様だと言われることも多い様に思う。そして、其の生を快く思わない事もあるだろう。それでも、死という存在への終止符が打たれて、初めて整理がつくし、分かることもある。だからこそ、その区切りを意識しつつもちゃんともっと色々生きようと思う。そんな、終止符や区切りを意識させつつも、故人と向き合う。それが弔いだと思いました。

 死んで泣いてくれる人がちゃんと居たんだね。色々あったけど安らかにお眠りください。 
私より

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