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伊舎堂 仁

伊舎堂さん好きです愛しています。
うららは伊舎堂さんの短歌を誰よりも愛しています。

今回のエッセイでは雑談から入って次に短歌の真面目な話に入ろうと思います。伊舎堂さんの短歌の作中主体はふわふわしていて、そこをふわふわで終わらさないためにうららなにり考えました。

今回の伊舎堂さんの短歌の引用は全て「感電しかけた話」に収録してあるものです。

雑談

初めて伊舎堂さんの歌集を買ったのは今年の5月、お目当ての歌集が見つからなくて、なんとなぁく帯が面白かったものを手に取りました。

「たまたま死ななかっただけ、と思ってもらっていいです」 「はい」
感電しかけた話

ハッっと困惑しながら鼻で笑ったのを覚えています

どんな歌集なんだろー!?とか思いながらページをめくると面白いわ面白いわで、気づけば何周もしてました。 

いくつか紹介しますね

〈男性も歓迎です!〉のところだけ黒い明朝体の字だった

よっこいしょ   ちょっとコンビニ行ってくるけど、なんか隠してることある?

ワンルームばかり並んでいる町の小学校はなんなんだろう
東京

最高ですね震えが止まらないですね、

うららはうららでクソリプ、クソDMの達人なのでもちろん伊舎堂さんに突撃しました。

これに対して伊舎堂さんがとんでもなく長い返信を下さって小学4年生として近づいたの申し訳ね~な~と思いました。丁寧にありがとうございました。ただ、1度やってしまうと後には引けないのでネタバラシは別の機会にしました。

東京文フリでうららは「うららの予感」を販売しました。5部しか売れませんでしたが...
伊舎堂さんも訳の分からん名前でお店をしてたのでネタバラシとして完璧なタイミングだ!と思い「うららの予感」を渡しに行きました。めっちゃウケてたので良かったです。

それからも1度「どうやったら恋人ができますか?」とかいうクソDMを送り丁寧な返信が帰ってきました。内容は教えないぜ、なぜならメッセージはうららと伊舎堂さんとの宝物だからね。

作品と実際に会った時の印象と文面のちぐはぐさが面白い人だと思います。

伊舎堂くん、愛しているぜ

伊舎堂仁の短歌の話

伊舎堂の短歌を説明するにあたってキーワードになるのが「作中主体の空想化」です。これはうららが勝手に作った言葉です。なんだか強そうでかっこいいですね。

作中主体ってなんだよ、短歌は一人称の文学とされていて主語を具体的に設定しなくても短歌の中に主人公がいます。これを作中主体、もしくは単純に主体と言います。

(なんで短歌好きな人しか読まなさそうなエッセイなのに作中主体の話をするかと言うと、短歌に詳しくない仲のいい大学の担任にこのエッセイをぶつけるからです。小野先生といいます。自分の短歌や短歌の解説をメールで送っています。メル友です。返信は来ません。)

さて、短歌の話に戻りますがむかーしむかしの短歌はいかに写生的なことを歌うか、好きで好きでたまらない心を読むかみたいな感じだったと思います。短歌というより和歌ですね。

ざっとしてますが、その後に(与謝野)晶子が現れて、女性の身体美、淫らな心境を大胆に表現した「みだれ髪」が刊行されます。

そんなこんなで流派が別れていってバチバチしていた時期があります。そこに穂村弘(ほむほむ)が現れて空想を短歌の中に持ち込みました。だいたいこの辺から現代短歌っていう言葉ができた気がします。僕はまだ生まれていないので詳しい事は全く分かんないですが。

そこから短歌が色んな方面に加速していきました。ちゃんちゃん。

伊舎堂さんはほむほむのことが大好きだそうです。

まえおきおわり!ちゃんとした話!
サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

耳で飛ぶ象がほんとにいるのならおそろしいよねそいつのうんこ
穂村弘「シンジケート」
本日も東日本のご利用まとこにありがとうございました
伊舎堂仁「感電しかけた話」
瑠璃紺の始祖鳥の胸かがやきて宇宙空間に降れるこなゆき
井辻朱美「クラウド」

この4首から空想について考えていきます。

耳で飛ぶ象がほんとにいるのならおそろしいよねそいつのうんこ

この4首のうち1番親近感が湧くのはこの1首ではないでしょうか、構図としてはまともな作中主体の空想であるからです。ここでの「まともな」とは空想との対比です。

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい

次にこの歌、サバンナのぞうのうんこに願っている作中主体はだいぶイカれているのですがこれは私の考える作中主体の空想化に当たりません。

この歌を読んだ瞬間にこれは空想であると無意識の内に識別できたと思いますがそれはこの短歌に空想というフィルターが挟まっているからです。空想フィルターからみた主体は空想的になります、当たり前です。主体が空想化されているのではありません。穂村弘の短歌の多くはこの構図に当たります。

(穂村弘の短歌の引用がゾウのうんこばっかりですがほむほむはぞうのうんこ以外にも短歌を作る人です。分かりやすいのでこれにしただけです。)

瑠璃紺の始祖鳥の胸かがやきて宇宙空間に降れるこなゆき

井辻朱美の短歌は作中主体がいません、これも空想フィルターがかかっているのが分かる良い例です。

ここで最初の短歌に戻ります

耳で飛ぶ象がほんとにいるのならおそろしいよねそいつのうんこ

空想フィルターがかかっていないのが分かります。まともな作中主体が空想をしています。

分かりづらいので表にします。

空想マップ

はい、字が汚くてごめんなさい。

ここで伊舎堂の短歌に戻ります。1首だけだとわかりにくいのでいくつか重ねます。

本日も東日本のご利用まとこにありがとうございました

さっきから言ってることと実際にやってることがドクターペッパー

2万円くらいおろしていく駅の曲がったららへんで笑ってしまった

大丈夫なわけないだろ  遊星  とかって辞書でひいてるのに

上記した伊舎堂の短歌には空想フィルターが存在しない、それなのに作中主体はどこかふわふわしている。上に表にある4つの区分のどれにも属していません。短歌全体ではそもそも空想という分類ではないからです。
うららが考えるに、作中主体のみが空想化されています。伊舎堂の短歌の最大のは魅力はこのギリギリの存在感だと思います。

最高にロックだぜ、伊舎堂仁。

一歩間違えたら空想フィルターなかかってしまう。伊舎堂の短歌はサクッと作った印象を受けましたが、ギリギリで存在してることを理解した時、納得し、少し緊張しました。

こんな感じで伊舎堂仁の短歌の魅力の解説を終わります。

伊舎堂さんへ

今回は稚拙ながら短歌の解説をさせてもらいました。ありがとうございます。少しでも伊舎堂さんの短歌の魅力が伝わって欲しいという一心でこのnoteを書きました。
これからもうららは伊舎堂さんの活躍を心より願っています。

西条うらら

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