「願望と仮定」

「あらゆるカラスは黒い」に対して、「このカラスは白い」という文を出し、その「エビデンス」として画像を投稿することは、反証という手続きのよくある例である。

合成ではないかとか言ってさらに「エビデンス」を求めることもできる。

一羽のカラスに白いペンキをぶっかけることはナシらしい。

当然ながら、その画像じたいは文ではない。その画像について「これはガラパゴス諸島だ」と述べるのは誤りだ、と、さしあたりはそう言えるにしても、しかし「これ」で指し示されているものは文ではない。
そして「これ」からは、或る一つの文が必然的に表現される、ということは無いんだった。
なぜ画像を見せることが、なんなら白いカラスの実物をもってくることが、「白いカラスは存在する」の「エビデンス」になるのか。

私は自らの腕を切って出血させ、それを見せて、「私は出血する。どのタバコも出血しない。私はタバコではない」と言いうる。私のこの発言は、或る光景のなかで、私が出血するというところを見せようとするものだ。そしてまた、他人に、そこで見たことに依拠して、「五番地は出血する」という判断を生じさせ、それを正しいと見なすようにさせる。
他人は、そこで見たことに関して、輸血パックうんぬんを持ちだしうる。それを「五番地は出血する」の「エビデンス」として、認めないわけだ。あるいは、「五番地は出血する」の正当化に適う、しかもそれ単独で決定的な力を持つ「エビデンス」としては、認めない。

私が腕を切り、次いで、「餃子二つお願いします」と言うとき、この発言は私が腕を切ったことに関する発言であるとは見なされないだろう。そしてこの発言は、「意外と黒い」「ほら見ろ、タバコが血を流すか?」といった表現とは異なり、不適当である。
或る知覚が必然的には或る表現をもたらさない、あるいは、或る表現から或る知覚が必然的には生じないということは、あらゆる表現は互いに等しいといったことを意味しない。

なぜ「エビデンス」をもとに語ることが支障なく出来てしまっているのか。

私がバスタオルを見て必然的にバスタオルだと思うなら、バスタオル以外には思えないなら、バスタオルを鞭がわりには使えないだろうし、その材料に着目することもできないだろう。

「タバコは接続詞で」はない。

私がタバコ「ではない」ということは知覚の範疇にない。私が流血するもの「である」ということは知覚の範疇にない。
もし私が、タバコを見てタバコであると必然的に思うならば、そうとしか思えないならば、私について私であるとしか思えないならば、「もし私がタバコであるならば私は流血しない」というような語りはできないだろう。私は私をタバコであると、なにか私ではないものとして仮定して、私について弁明することはできないだろう。私は私について私であるとしか思えないならば。

想像の幅と「論理」。論理の根拠としての想像。反実仮想。

もし私がもっと胸が大きかったならばなぁ、もし私がもっと背が高かったならばなぁ、といった願望。私が現にそうであるのとは異なる仕方で想像する、現にそう在る私ではない私を想像する。仮定と感情。

正気か?