らりるれろさんによるリンギスまとめについて気が向いたら何か書くときのためのメモ、ってメモしてたらそれっぽくなったから投稿


・リンギスによるハイデガーに関する言及はだいぶレヴィナス寄りだがそれはとりあえず措いとく。
・ハイデガーは『存在と時間』で「喜び」の気分についてもチラと言及しており、また、本来的な顧慮は、「不安」という語がもたらすだろうイメージとは異なって率先して範を示すような在り方へ現存在を開くものだが、このあたりの話と絡めることができるかどうか。

・レヴィナス『全体性と無限』の序盤から登場する他所への欲望。
・上掲書におけるアペイロンとしての風や水や夜がリンギスのテクストではレヴィナスよりずっと肯定的な感じ。
 ・「もやい綱を外す」(『実存から実存者へ』)、劇場でなされる演劇とは異なる開始としての旅立ち。
・パリサイ派的ではない、バタイユの生の開花(『エロティシズム』)
・黒人の爆発的な笑い(同上)

・カンギレム(『正常と病理』)における病理学の話のなかの「パトスがロゴスを呼ぶ」、そしてボネ氏体位など状況に対する有機体の姿勢の変化における生の規範。

・フッサールは想像(虚構)を現象学にとって重要な資源だと誤解を恐れながら言っていたが(『イデーン』)、よりよく想像するために経験を積むのも欠かしはできないと言っていた。
とは言え、もし「旅」がいわゆる「現実的な」意味で言われているなら、そのような想像の資源としてリンギスが「現実での」旅を好評価しているなら、それはリンギスが言っているのはそこらの中年や若者が旅をして「人生経験(笑)」を積むのが大事だと言ったりしているのとかわりないだろう。らりるれろは
「生における多様な命法を聞き取り、その応答として「喜ぶ」ことこそが「旅」であり、リンギスの言葉で言えば「哲学にとって必要不可欠な仕事」こそが「旅」である」
というように、「現実の」旅がリンギスのいう旅ではないと、引用をもとに示している。

学校の勉強で、わからない問いに立ち向かい続けるとき、たしかにその問いについて考えている、その問いへ志向は到達しているのだが(志向は行動ではない)、わからない問いを志向しつつ志向する時間のなかで、私は他所者のように不案内で、勝手を知らない。
私は私が勝手を知っており、とくに労もなく、自分が望んだことをできる時間-空間から、問いへの探究の時間-空間のなかへ、出てしまっている。
そこではネットで何かを検索したりAIに頼ったり翻訳アプリに頼ったり、事前に調べておいたのにさも以前から知っていたとまわり思わせるために(まわりの反応を制御するために)語尾を整えたり、そういうことが通用しない。私は私がその問いについてわからない不能者であることを知っている。
リンギスの話が哲学することについてのものであり、哲学することが、たとえ議論の余地が在ろうと見ることや思考することを本義とするなら、リンギスがどこそこで何かを見たとかいう話は、思考すること、問いへ向かう思考のメタファーである。私にとって勝手を知らない他所である時間-空間としての問い(question)へ向かう探究・冒険(quest)の現実に関する一つの暴露である。
とはいえ、この解釈は、リンギスが「思想家は、パリ・ベルリン・東京・上海に旅行しても、何も得るものがない」と言い、そこに住まう人々について言及していることから、やや弱いものである。
もしリンギスが他人としての「他者」にここまで重きを置いていなかったならば、あるいはらりるれろが「他者」にまつわるリンギスの話を終盤に集中させなければ、この解釈は通用しただろう。
いやそうでもない。リンギスは結局、他人としての「他者」に、私が勝手を知っている「我が家」ではない他所を見ているのではないか。なぜリンギスは異郷の地の事物ではなく人ばかり見るのか。
リンギスが人に焦点を当てていることによって、
「哲学にとって不可欠な仕事は、知覚された風景の中に、エレメント的なものの中に、夜の中に、死の深淵の中に、多様な命法を認識することである。そして、喜びの洞察力と決定力を、命法に従うこととして打ち出すことである」
この記述は、他人ありき、「現実的な」旅のなかで出会う異邦人ありきのようなものとなっている。少なくともそういう解釈へ傾きやすくさせていると言える。リンギスの読者はシャンプーや路上の空き缶や冬の樹の茶色の暖かみを見ようとはしないだろうし、日常的な事物に対して無感動な自分に恥じたり情けなく思ったりはしないだろう。

結局のところ、リンギスはユダヤ的な流浪性を旅行という仕方で語ったに過ぎないのか、脱宗教化されたレヴィナスにすぎないのか。




正気か?