コウメ太夫解釈のために
コウメ太夫の解釈というのはこんにち一つの分野として確立されつつあるけれども、さらなる発展を遂げる基盤として、この分野が一つの集合体系としてまとまるための枠組みがまだ定まっていない。このような状況は新たにコウメ太夫解釈を志そうとする人々を捉えきれず、やがてこの分野自体の不健全化へとつながりえるために、早々に解決されなければならない。今回は手短にではあるがコウメ太夫解釈の基礎のキの字についてまとめてみたい。
いうまでもなく以下に述べるのはあくまで基本であって、このような基本を踏襲した上で、さらにその枠組みから外れた解釈を行うという方法もありえる。されどそのような高等技術に至る階梯として、これから挙げるいくつかのポイントはマスターしておくべきである。
形式的アプローチ
コウメ太夫解釈ではコウメ太夫によるネタと#まいにちチクショーを主な対象としている(なおコウメ太夫におけるパロールとエリクチュールの関係については今後十分な検討を必要とする)。この両者においていづれもコウメ太夫の言葉は以下のような基本構造を持つ。
***たら〜、(主として"思ったら"が用いられるが、そのほかのバリエーションも多く存在する)
+++た〜。(主として"でした"が用いられるが、これが状態を表現しただけの静的な表現であるのに対して、動作を表す動的な"ました"という場合もある)
チクショー!!
句読点や感嘆符の使い方などフォーマットにこだわっているため、このこだわりがない場合はその意味を十分に読み取る必要がある。
例)
チクショーの意味
受け取り手である我々が長年慣れ親しんだせいもあってか、コウメ太夫解釈においてはフォーマットの***と+++の部分の解釈に重点が置かれることが多く、最後のチクショー!!の部分が見逃されがちになる。しかしコウメ太夫がこのフォーマットに則って言葉を紡いでおり、なかでもチクショーという言葉に強いこだわりを抱き続けているということは、コウメ太夫解釈においては強く再確認されなければならない。
コウメ太夫の言葉においてチクショーという締めは必然である。しかし、コウメ太夫解釈においてはチクショーは必然ではない。初心者のやりがちなミスとして、チクショーをもとに解釈を行なってしまうことがある。
まいにちチクショーに着目してみたい。なぜコウメ太夫はまいにち言葉を紡ぐのだろうか。言い換えるならば、なぜ一日に一つしか言葉を残さないのだろうか。この問いの答えが見えてくると、コウメ太夫解釈の視界が開けてくる。
コウメ太夫の言葉においてはそれら一つ一つの距離が意識されているのである。もちろんコウメ太夫の言葉それ自体がバラバラのことについて言及しているということではなく、あくまで別々の道筋を辿っているということである。コウメ太夫は一見難解で支離滅裂にさえ見えるような文章を作る。これはひとえに我々の視野の狭さを危惧してのことである。コウメ太夫の言葉は言語化される以上解釈を免れないが、一般的な解釈だと俗世間の正しくない認識に引っ張られてしまう。そのような事態を防ぐためにはどうすればいいかという答えこそがコウメ太夫の言葉遣いに現れているのである。
そうした時にはわけのわからない言葉を使いつつ、一日に一つのことしか語らないというスタイルをとる。これらは前後に発した言葉との間に決定的な隔たりを作るのである。
ではなぜ決定的な隔たりが作られる必要があろうか。この問いの答えこそが、チクショーの秘密である。毎日全く違う言葉で彩られるチクショーは一つの普遍な真理の存在を指している。これに至る個々の道がその前の語りのパートなのである。
そしてまた注意されたいのが、このチクショーは毎日異なった意味であるという点にある。コウメ太夫は絶対的な真理の存在を説きつつ、そこに至る道を毎回異にしている。この場合もしチクショーの意味が固定されてしまえば、前段に述べられる部分も畢竟同じことの繰り返しに過ぎなくなる。これをチクショーは超越する。まさにこのような真理の探究の限界を知ったところにチクショーは存在し、それがコウメ太夫によって説かれたということはコウメ太夫がその限界の先に踏み入れたことを意味するのである。我々はコウメ太夫のチクショーをまず第一にその意味にて捉えなければならないのである。
そしてコウメ太夫は今どこにいるのか。限界の先のコウメ太夫は固定されない、可変なる真理を目の前にしている。そこでコウメ太夫は可変で統一的な存在を説くものとしてチクショーを用いるのである。ゆえにチクショーは固定された意味ではありえない。
コウメ太夫解釈においてはチクショーを都度解釈する必要があるのである。
追記未定