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「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」について考えたこと

 youtubeでたまたま「哲学の劇場」を見いていたら、それが#47の「本をたくさん読む方法(1)」で、興味と違ったので最初の方で見るのをやめたけどもいろいろと思ったことがあったのでまとめてみるという次第。


 たぶん初めに勘違いを解いておく必要があると思っているが、別にタイトルと同名の書籍『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』とは全く関係がない。私自身少し前に話題になっていたなというくらいの認識はあるが読んだこともないし、今のところ読む予定もない。それとは無関係に、そしておそらく全く違うやり方でこれから考えてみる。


なぜ働いていると本が読めないのか、という問い

 私は現在定職についていない。もちろん過去にもその経験がない。このことが「なぜ働いていると〜」という問いを考える際に影響があるかという点を少し考えてみても、おそらく問題がないので話を続けるが、この情報が無関係かと聞かれるとその答えはノーとなる。つまり、この問いを考えるにあたっては、まず何よりも当たり前に思えることから考え始める必要がある。詳細なデータとかに依る前に、働いたことのない私を含め全ての人間が簡単に知っていることから始めよう。
 ずばり「なぜ働いていると〜」という問いに対する率直ない回答は「”働くこと”に時間を割くから」である。”働くこと”に注釈をつけようとするならば、これは時や時間によっていろいろと異なる概念である。フォードは従業員休養まで管理しようとしたという点でそこでは”働くこと”に”休むこと”までも含まれていたし、今でも日本人の我々からしてみれば「これが本当に勤務中なのか」と外国にたいして思うこともあろう。しかしどうやっても引き剥がせないのが、一日の決められた時間において仕事という命令の実行を強制されているという点であり、仕事中には仕事をしていない時に許されている自由が制限されている。仕事をしていない時には本が読めるが、仕事をしていると本が読めない。どうだ。まいったか。
 別に「働いていると〜」というのを「勤務中だと〜」と読み替えたような意地悪をしているのではない。そうではなくて、ここでいいたいは誰もが仕事についていると自由な時間を奪われている、ということである。つまりここでの「働いていると〜」というのは例えば「育児をしていると〜」や「介護をしていると〜」、「学校に行っていると〜」なんかと同じように捉えられなくてはいけない。これらの場合で本が読めなくなるかは知らない。
 本が読めなくなる前、つまり働く以前にはそれはそれは多くの自由な時間があって、思い思いに楽しい読書をしていたことであろう。それと比べて、働くことによってその自由な時間が減る。これは無職にもわかる。いまはいくらでも自由な時間を過ごしているし、それが減るのが嫌なのも一因となって働きたくないのだ。
 これ以外の”仕事”が我々に与える影響についてはもちろん後に見ていく(やっぱり見ないかもしれない)。そしてそれはおそらく上のような単純な話ではなくて、踏み込んだ解釈によるものであろう。この話で言いたかったのは、こんな簡単な問いをするのなら簡単な答えも受け入れる必要がある、という点である。正しい問いの立て方には専門の技術が必要である。問いを立てる能力がないなら、背伸びした議論をしようとするのはやめるべきだ。下手な問いに対しても、今からするように簡単な答えをした後から踏み込んだ議論を立てようとするのなら、それでいいだけのことである。つまりわからない漢字はひらがなで書けばいいんだし、”須く”なんて言葉を誤用するのなら須く”みんな”という言葉を使うべきなのだ。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか、ということ

 「なぜ働いていると〜」という答えに対する第一の回答は「働いているから」となる。ただ問い自体にその答えが、しかも誰にとってもその答えというものが一目瞭然な形で入っているというのは、全くナンセンスだ。しかしそんなことは誰もがわかっていながら『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という本がすごい勢いで売れるというのは、そこにそれ以上の問いが存在していて、それに対する答えを多くの人が欲しているということを明らかにしている。その問いとはなにか。これは残念ながら無職であるがゆえに完全な想像の域を出ないけれども、おそらく「働くことで自由な時間が奪われるという以上に何か私の読書を妨げているものがある」ということであり、その何かの存在を掴もうとする問いであるように思われる。ただこの何かが果たして勤労に特有なものか、他のものとどう違うのかということまではわからない。そしてもっというならば、これはおそらく勤労という条件で括って一般化できるのでもないと思われる。もしできるならばおそらく素晴らしい誰かの手によってその解放がもう既になされていることだろう。そうであるにもかかわらず、もうこんなにも長く人類が労働をしているのに解放へとは向かえないほど、その存在は難解で手に負えないものであるのだろう。そしてここまで考えたあと、この問いにはなにが残るのだろうか。
 みんなで悩みを共有することは、その悩みというものがそれぞれ少しづつ違っていても大枠がそれほど違わず重なる部分があったら、とてもたやすい。もし悩みのそれぞれが同根であったらおそらく共感しやすいことであろう。それに対して、その全てを解決できるようなマスターキーを方法として生み出すことはとても難しい。ちょっとづつ違う悩みの全ての部分を覆い尽くして、その全てを同じ道に進ませて解決へと至らせなければならない。任意のxに対して関数f(x)が定数となるようなものを見つけ出さねばならないのだ。こんなことは無職の私には無関係であって、別に頑張って考え出したところで印税も入ってこないし、勝手に悩んでいる人間に構う義理はない。考えたところで私の能力で解決できるとも思わない。別に解決できますと大風呂敷を広げて集金してもいいが、私はそういうやり方が嫌いなのでしない。
 ここまでが前振りで、最初に書いた「思ったことを述べる」というターンに今から移る。

本を読むということ

 本を読む、ということはここでは無遠慮に振り回していい言葉ではない。まず持って本を読むということが内包する行為というのはいろいろあって、この言葉から受け取るイメージが固定的なものでもないことを述べておく必要がある。当たり前のことでありながら誰も理解していないので。教科書も参考書も本だしビジュアルブックも本だしエロ漫画も本だ。記事やツイートをまとめて本として出版することもある。でもスマホで記事を読んだりツイートを見たりすることは、本を読んでいるのではない。別にこの認識ついては各々みなさんご自由になさってという気でいるが、全ての人が知らないので、事実を正しく認識するという点においては、『「本を読む」という言葉が意味するものから、それが一人の人間に受け取られるまでに意味が削られ選び取られているということ』は知っておく必要があるだろう。そうした正しい認識から出発して、「本を読む」ということを考えるならばその意味を恣意的に限定しようとせず、意味するすべてを受け入れなければならない。
 では「本を読む」ことから一般になにが引き出せるのだろうか。厳密には必要条件でないけれども、ここでは「活字を読む」という点を挙げたい。なぜこの話をしたいかというと、「本を読む」こと、「本が読めなくなる」ことを考える上で「映画(ドラマ)を見ること」との対比が重要であるからだ。「本を読む」ことと「映画(=映像)を見る」こととの違いは時間の流れ方にあって、映画は始まりと終わりが与えられてその時間だけ拘束される。本の方は始まりと終わりを自ら決定するように委ねられていて、話がよくわからないと思って前のページに戻って読んだり、どれくらい集中して読むか・読まないかを選択できたりする。そこで始まりから終わりまでの時間はその人が選び取るものになるし、何よりページもレイアウトもバラバラだから、テキトーな新書と人間喜劇やカントの批判書とでは読む時間が全然違う。言語が慣れないものになったら余計時間がかかる。「本を読む」ことの持つ「映像を見る」ことと違う、こういった特徴は大事だ。きっと多くの人は労働によって自由時間が減ったことなんかは承知していることだろうし、残った時間でもなかなか本が読めないからそれについて書いてある本をわざわざ買って読むのだ。おそらく「映像を見る」ことならば時間が減ったと思う事は少ないだろう。別に映像を流した液晶を見える範囲に置きさえすればいいんだし、「面白い作品が減った」とか「他のことで忙しい」とか簡単に直接の原因を見つけられる。『なぜ「本を読む」人は本が読めなくなったことに悩むのか』大胆に言い換えるならば『なぜ本を読めなくなったことの理由がわからないのか」』という問いを立てることは大きな前進である。
 その一つは情報を能動的に取り込むための集中力に大きく関係があろう。基本的に読書体験では書いてあることが読むように迫ってくるなどということはない。そういう比喩や誤解は別にして。勤労後の心身ともに疲れた状態では平時よりもその集中力が弱まっている。こうして主体的に活字を追うというのが難しくなる。だから帰宅後の自由時間がn時間あるとして、そのn時間を勤務前に変えれば簡単にこの問題はなくなる。そして多くの人にとって、読書は生活の中心に据えられるものではない。あくまで楽しい生活を彩る一要素でしかないからそんな面倒のことはしたくない。もっと今のライフスタイルのままで本を読めるようなカッキ的でカクシン的なスバラシイザンシンなアイデアはないのか。知らない。

本を読むことの特権について

 この類の話はいくらでもされている(具体的に記憶がないが、当たり前のことなのでおそらく誰かがしていないということはあり得ない)ので今更する必要もないと思われる。しかしこの種の、「なぜ働いていると本が読めないのか」などという非常にユーモアあふれるタイトルに真剣に悩むような人間には理解できていないようなので今一度。上にもいったがどうもこの種の人間は「本を読むこと」が何かとても偉くて優れたことだと思っているようだ。みなさん勝手に「本を読むこと」を「文芸書を読むこと」だと捉えているようだ。
 かつては「小説なんか読んでいるのは阿呆だ」と思われ、少し前は「漫画なんかを読んでいるのは阿呆だ」と思われ……という話がある。
 そしてプラトンはデカルトもカントも読んでいないし、紫式部は漱石も鴎外もこのnoteも読んでいない。エジソンもそうだ。
(10月13日)

あと他にも言いたいことがったような気もするけど思い出せないので、気が向いたら加筆します

 めんどくさいのでそれがどのような外在因によっているかはここでは説明しないけれども(現在の思想状況とか社会批判とかの文脈では必ず出てくるので好きな本で勉強してください)、ここまでの話にかこつけて言いたいことがあるとすれば「読書の独立性」を復権しましょうねということ。本当は「読書の自立性(自律性)」とまでいいたいけどまた気が向いたら立ち入ることにして、今回はさしあたり「読書という行為」に主体的であろうという話にしておく。これは上で触れた「読書」という認識にも突き当たるけれども、どうも悪い影響を、それも無意識のうちに植え付けられてしまっているのがよくない。別にインターネットでチヤホヤされる必要なんてないし、そんなものはここいら二十年の話でしかなく、それ以前にそんな読書は存在しなかった。まだ他人に押しつぶされていない小さな子供のとき、一人で楽しい夢想に浸れるのが楽しかったのだ。読書のやり方は色々あって、過去には一人が朗読するのをみんなで聞くという形式であったり、義務教育で本を読む際には「正しい本の読み方を教える」係がいてそれをその他多くの人間と相確認し合いながら共有していたりしたが、今本を読んでいる主体はそんな場にはいない。むしろそういうやり方を全面に受け入れるのとは違った形で本を読もうとする意思がそこにはある。じゃなきゃこんな時代に本なんか読もうとしないだろう。もちろんここでいう本とは上に述べたとおりであるが、そうやって視界を広げてみると、むしろ目指したかった姿はこれまでの偏執によって見ていなかった読書の姿にこそあるというのがわかる。それは他人の姿に限らず、漫画を読んでいる自分のうちにも、どこも焦りや不安の類がない。ここで留意するのは本来的な読書の形がなに、というのではなく、これは「なぜ働いていると〜」という問いへの、そういった問いをしてしまう人間への処方箋でしかないということだ。
(14日)

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