スイスでコモンを考えてみる
子ども、特に障害児を育てる中で特に、胸が痛くなるのは、虐待や心中など悲しいニュースを目にした時である。痛ましいと言うだけでなく、私自身が地続きの先にいるような気がするからだ。
その中で、よく「行政がもっと何とかしないと」とか「行政に相談すればよかったのに」と言う声を聞くが、私にはどうしても違和感が芽生えてしまう。みなさん、役所に行ったことありますか?手続き、どんな感じでした? 役所は制度である、そして制度は個人にそこまでは歩み寄ってはくれない、と言うのが私の実感だ。個々の家庭の切羽詰まった状況に柔軟に対処するのは限界を感じる。
が、個々の家庭事情は切羽詰まっており、その緊急事態に助けが一番必要なのだ。そしてその一番大変な時、親は大抵孤独で一人なのだ。子どもが怪我をした、病院に行かないといけないけれど、他の子ども達は連れていけない。朝の一番忙しい時に限って子どもがパニックを起こす。こう言う時、私はいつも途方に暮れて、でも一人で解決するしかなかった。気が狂いそうだった。そう言うのが育児の醍醐味だ、と言う人がいたら、あなたがやってみてよ、と言いたい。あまりにもいっぱいいっぱいで一歩踏み外したら大事故、トラブルの一発触発になっていたかもしれない。私のような思いや経験は絶対に他の人に味わって欲しくない。
もちろん、深刻な問題は色々な専門家と行政が関わっていかなければならないけれど、育児の現場では、周りのちょっとした手助けや親切心、肯定的な考えで、状況が随分と改善するものだと実感している。
それなのに、日本ではなんで、すぐに「行政、行政」と言われるのだろうか?遠くにある役所の、そのコンクリートの建物にいる人が、今困っている人を助けに走り出てくれるだろうか? どこかの誰かがすれば何とかすれば良い、と自分では何も動かないこと、無関心なこと、常に自分が受け取る側にしか立たないこと、などが個人の無力感を助長し、コミュニティを育てず、その上孤独をより一層募らせて、結果この国をどんどん貧しくしていくと感じる。
もし行政が行うとするならば、個人の目線に沿った支援・介入が必要なのだと思う。例えばフランスでは、子どもの虐待は親の責任と言うより、それを未然に解決できなかった行政の責任と思われるらしい。だから、困難な家庭にはサポート(社会家庭専門員など)員が入り、サポートされるその家族が望むように動く。仮に、朝が大変ならば朝に来て、子どもの朝食や通学への準備をするし、隣人とのトラブルも間に入って解決するようにしてくれる。詳しくは 安発(あわ)明子さんの書かれた「一人ひとりに届ける福祉が支える フランスの子どもの育ちと家族」を読んでほしいのと、その本を紹介したポッドキャストがあるので、それもまた聴いてほしい。
行政の力だけではなく、コミュニティを私たちの手で培っていくという考え、新しい公共、「コモン」とも言われているが、これは、育児環境や何らかのニーズを抱えている人を包摂する社会をデザインするのにはとても合っているのではないか、と思う。
このコモンと言う概念を私が初めて考えさせられたのは、スイスでだった。
スイスは骨の髄まで資本主義の国であるが、山々に遮られて集落が点在する地理的、また地方ごとに母語が違う文化的な背景などから、小さな単位ー例えば町や村単位でーの地方自治が発達していて、例えば、移民を住まわせるかなどの決定も、タウン・ミーティングなどで決めている(これについては賛否両方からの意見はあるが)などしている。
そのスイスのアルプスの麓の街を訪れた時、しみじみと「ああ、成熟した資本主義の行き着く姿は社会資本主義なのだなぁ」と実感した。街並みは整えられ、赤い花があちこちに植えられ、整然とした家々が並んでいる。それは豊かさであり、街の隅々にまで沁みていた。
富が蓄えられ、個人や街に蓄積され、やがて個人の家、持ち物を超えてコミュニティに還元されて行くと、資産の多寡に関わらず、市民の生活に美しさが日常に満ちて、きっと豊かな気持ちになるはずだ。私はその時、東南アジアに住んでいたのだが、周りの人がブランド品や流行の品物をとにかく買う、欲しがることに驚いていた。
でもスイスを訪れて、ブランド品を欲しがる人の気持ちが少し納得できた。その頃、東南アジアはどんどん発展途上で、あちこちで大規模開発が行われ、都会では工事ばかりで道は凸凹、あちこちに泥や建設ゴミが散らばり、埃っぽい空気の中、工事現場の騒音が四六時中鳴り響いていた。自然もなく、公園もない中、そんな殺伐とした光景を毎日目にしていたらどうだろう。きっと美しいものを見たい、そばに置きたいと思うだろう。それが彼ら彼女らにとってのブランド品、高級車なのだ。私も住んでいると実際次第にそのような気分になってきていた。きっと人間の本能的な反射行動なのだと思う。現に、スイスにいる間、私は「こんなに綺麗な街の中ではものなんか本当に必要か好きなもの以外は欲しくなくなるなあ」と感じ入っていた。
コモンと言うのは、まさしくそれだと思う。斎藤幸平さんは「社会的に人々に共有され、管理されるべき富」と定義している(「人新世」の資本論(集英社新書))が、私は、日常の美やそれに惹起される豊かな気持ちもその「コモンの富」に含まれると思う。
そして、それは、工事現場の谷間、貧困の谷間の中に点在する個々の高級コンドミニアムの中で隔離されている美しい物や金より、ずっと心に充足感をもたらしてくれるのではないか。そして、その中で利他精神やコミュニティを思う公共心が育まれ、お互いにちょっとした助け合いが普通になっていく。資本主義と物質主義を抜けて、私たちがその場に行き着くことができたらなば、成熟した社会の中、私の味わった苦労はもう他の誰もがせずに、幸せのハードルはずっと低くなる。