埴谷雄高に問う
自分がこれまで、場所と言う場所で、小説や詩や評論やエッセイを書けてきたのは、一つには、学生時代の、埴谷雄高との出会いがある。
どこまでもその、自由な、ーつまりその文章に於ける無限的執筆方法の方法論的取得ー、文体に、慣れ親しんだからである。
騙されたと思って、埴谷雄高を一度、読んで貰いたい、そこには、文學のありとあらゆる自由があることを。
そうすれば、時に、そうしてきた自分は、埴谷雄高に問う、一体あなたの目指したところの究極は何ですか、と言う風に。
勿論、政治や思想のこともあったでしょうが、それだけでは覆い尽くせない、文學の闇があったことを。
この闇に支配された/支配した、埴谷雄高には、氷河期まで遡るほどの、アプリオリな、文學的資質があったことを、また、それを獲得していたことを。
その点で見れば、小林秀雄と埴谷雄高は、どこまで行っても、無限である。終わりがない。死んでも読まれ続けるのは、そこに、無限の普遍性があったからだと思います。
埴谷雄高に問う、いつその無限性を放棄しますか、地球滅亡の時まででしょうか、その解答にならって、自分も、闇と無限を軸に、小説を書いて参ります。
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