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『黒木渚論』ー黒木渚、その生と死に於ける美学ー

『黒木渚論』ー黒木渚、その生と死に於ける美学ー

かいわれのせか

『はじめに』

今回の本論、『黒木渚論』ー黒木渚、その生と死に於ける美学ーは、既出の黒木渚論の2つのものとは、打って変わって、含まれている全ての論が、どこにも発表していない、新しい論ばかりで埋め尽くされている。【序説】として、この文章とし、【第一章】は、黒木渚の作品論に近いものを集めた。また、【第二章】は、割とエッセイ調のものを書いて載せている。【第三章】は、『おわりに』として、本論を結んだ。

どれだけの人の興味を誘うかは、分からないが、精一杯書いたので、是非購入して読んで貰いたい。

※文章の中で、黒木渚という本名で活動されているので、黒木渚と表記していますが、決して渚さんを呼び捨てにしている訳ではないことを、ご了承願います。

目次

【序説】

『はじめに』

【第一章】

『黒木渚論・・・範疇論としての音楽を超えて』

『黒木渚論・・・「火の鳥」に関する雑考』

『黒木渚論・・・『呼吸する町』のラクトルのボールペン』

『黒木渚論・・・未だに残る、銀河ワプミの謎』

『黒木渚論・・・黒木渚の「竹」と、萩原朔太郎の「竹」の共通項』

『黒木渚論・・・ステージ上の振る舞い』

『黒木渚論・・・「美しい滅びかた」の歌詞と音楽とMV』

『黒木渚論・・・粗製乱造の世の中に、無垢』

『黒木渚論・・・壁をぶっ壊して行く姿勢』

『黒木渚論・・・歌詞に置ける方法論』

『黒木渚論・・・.なーちゃん村に置ける黒木渚の位置』

『黒木渚論・・・優秀なる英語力を、視座に据えて』

『黒木渚論・・・黒木渚の行方』

【第二章】

『黒木渚さんとアルコール』

『黒木渚論・・・何故、ジャズと相性が良いのか』

『黒木渚と明暗について』

『黒木渚さんと歴史』

『黒木渚さんと、syrup16g』

『黒木渚さんへの入場形式としてのお勧め』

『黒木渚論』ー黒木渚、その生と死に於ける美学ー

【最終章】

『おわりに』

【第一章】

『黒木渚論・・・範疇論としての音楽を超えて』

黒木渚さんの音楽を、範疇論的に見れば、toe、や、髭、の影響があるということは、当たり前として考えられることだ。しかし、何といっても、黒木渚さんの声が、音楽を席捲しているということは、非常に重要である。

この、声については、以前、黒木渚さんが、自分のアプリオリな才能は、声だけだと思って居る、ということを述べられていたが、思うに、ライブで、ギターを持ちながら、動態するその姿のカッコ良さも、天性の才能だろう。さまになる、という言葉が適切だろうか。

結句、どんな音楽でも、ーそのバンドサウンド的音楽の構築であったとしてもー、それを凌駕する声と佇まいが、黒木渚さんの或る種の魅力だとは言えまいか。その姿勢が、ファンを惹き付けているとは言えないだろうか。自分は、そう思って居る。


『黒木渚論・・・「火の鳥」に関する雑考』

黒木渚さんの曲に、「火の鳥」という曲がある。自分が黒木渚さんの曲の中で、一番エネルギーを貰える曲だ。社会の所謂、底辺に居る自分は、どうしてもこの曲がないと、社会の上部へと、飛び立てないのである。
この曲においては、黒木渚さんが喉を壊したことの現状から、脱却し、その運命に復讐する、というコンセプトが、あったに違いないだろうし、自分も声を悪くしているので、その重なりもあってか、エネルギーが貰えるのも、至極当然な訳である。

「火の鳥」は、非常に軍歌調である。また、共鳴を呼ぶ曲でもある。日々の戦いにおいて、ー現実に於ける社会との闘争ー、誰しもが現実に打ちのめされた時に聴くと、精神にカツを入れて貰える曲でもある。まさに、貴重な曲なのだ。
歌詞においても、曲においても、黒木渚さんを知る上で、「火の鳥」は最重要だが、確かに考えてみれば、火の鳥は、神話・伝説で、不死鳥とされる、架空の存在である。しかし、我々が火の鳥に或る種の憧れを持つのは何故だろうか。

そういった、不思議な感覚を持たせる火の鳥であるが、黒木渚さんの「火の鳥」の歌詞を見れば、自ずと、黒木渚独特の「火の鳥」の世界観に飲まれるだろう。そこには、一つの諦念を打破することへの、強い意識が汲み取れる。
人間において、必要なもの/不可欠なもの、としての、生きる強さのメタファとして、「火の鳥」という曲は存在しているように思われる。『黒木渚論・・・「火の鳥」に関する雑考』となったが、自分は、「火の鳥」という曲に救われたから、書きたいと思った、という訳なのである。



『黒木渚論・・・『呼吸する町』のラクトルのボールペン』

現在でも、大切に持っている、黒木渚の小説、『呼吸する町』のラクトルのボールペンのことである。勿論、未開封ですが、この様な貴重なグッズというものは、非常に嬉しいものです。また、限定グッズ、販売して貰いたいですね。

丁度、【黒木渚格言集】を編集していた時に、『呼吸する町』を読み返していたのですが、やはり、小説から飛び出したグッズというものに、心底、グッズ集めが趣味であり、日常でもある自分にとっては、価値を感じます。

『呼吸する町』を読んだことのない方は、是非、読んでみて下さい。この小説は、私小説ではなく、虚構の小説と言えると思うので、どちらかというと、オプティミスティックな部類に入ると思います。それにしても、ラクトルのボールペン、持っているだけで、最高です。


『黒木渚論・・・未だに残る、銀河ワプミの謎』

昨年、行われた、器器回回ツアー大阪での、ライブ後の握手会(グッズ1万円以上購入した方へのポスターアのお渡し会)に居たのは、黒木渚さん(銀河ワプミ)でした。どうしても残る謎が、未だに有るんです。あの銀河ワプミは、本当に黒木渚さんだったのだろうか。

勿論、自分の事を覚えて下さって居たし、黒木渚さんなんですが、

黒木渚=銀河ワプミ
黒木渚≠銀河ワプミ

どちらが正しいんでしょうか、と未だに思う訳なんです。というのも、帰り際に、私服の黒木渚さんを、見かけた様な気がして、銀河ワプミは、黒木渚とは、本当に別人なのではないかと思いました。

とは言え、楽しいライブだったし、グッズも良かったし、最高な日だったので、今思いだしても、良い思い出しか浮かびませんが、それでも、時折、ふと思うんです。黒木渚≠銀河ワプミ、が頭を過ります。そんな、未だに残る、銀河ワプミの謎についてでした。


『黒木渚論・・・黒木渚の「竹」と、萩原朔太郎の「竹」の共通項』

黒木渚の曲に、「竹」(アルバム、死に損ないのパレードに収録)という曲がある。物事が上昇することへの歓喜と竹の動態を重ね合わせた様な曲で、例えば、「世界を吸い上げて上へ」という歌詞などに、その表出が見られる。

萩原朔太郎には、「竹」(詩集「月に吠える」に収録)と言う詩がある。とても珍しい詩で、しかし、荘厳な感じを受ける詩だ。「ますぐなるもの地面に生え、するどき青きもの地面に生え、(略)」という文章が、何とも奥深い。

多分に、黒木渚さんが、萩原朔太郎を意識していても、意識していなかったとしても、随分昔に姿を現した、萩原朔太郎にルーツを辿れば、現在にその「竹」を表現した姿勢は、強く評価されるべき必要性があると思われる。

思っても見れば、詩人である萩原朔太郎と、音楽家であり小説家である黒木渚さんに、言葉の接点があること自体が、日本文学の継承という意味合いに置いて、当然の如く、日文出身者の自分としては、嬉しいことなのだ。

日本の伝統の継承が、現在、うまく行っていない様に感じる自分としては、過去の日本文学を、現代的に表現する、まさに古典への回帰として、様々に行われて貰いたい訳であって、黒木渚さんに、感謝すべきことなのだ。

言ってしまえば、竹は、日本の伝統的植物であると言え、今後も、黒木渚さんの「竹」の後を、継承する人々が現れて貰いたいのだ。そして、最後に、黒木渚さんの「竹」は、名曲だ、という事実を述べて置きたい。


『黒木渚論・・・ステージ上の振る舞い』

黒木渚※のライブに行ったことがある方だったら、誰もが思うに違いないと思うが、ステージ上の黒木渚さんは、まるで演じているというか、振る舞いがものすごく、しなやかなのである。黒木渚の棘の、ラジオで見せる姿とは、結構な違いがある。
勿論、どちらが良いとか、そう言った話ではない。どちらも崇拝する訳だが、ともかく、一度、ライブに行ったことのない方は、黒木渚のライブに行ったら、世界観が変わるよ、と言いたいのである。確かに、銘打つ通り、舞台の様なライブなのだ。

また、赤いギターを持って、動く動作のセンスなど、過去に遡って、ライブDVDを見て頂けたら分かると思うが、役者、という感じが強い。そこには、独特の演技の様でもあり、黒木渚さんの実体でもある様な、姿が見て取れる。実態も、演技かもしれない、とも思う。
自分が、ライブで、5人全体で演奏している時、殊更にカッコ良いと思うのは、「火の鳥」と、「ダ・カーポ」を演奏している時だ。集合体から発せられる、動態の美とでも言おうか、そこに、黒木渚さんの声が乗って、芸術の完成形が現出している。

そう言った意味合いにおいても、黒木渚の、ステージ上の振る舞いには、目を引くものがある。こういう云わば、現象している音楽というものが、やはり、現代の美の一つともされそうだし、ー結句、その位置づけに着手したのが、黒木渚以降だとしてー、芸術至上主義の体現であると言えよう。
まだまだ、ステージ上の振る舞いにおいては、書き足りないものがあるが、次のライブまで待ち遠しいという今まさにファンになろうとしている方がいらっしゃったら、過去のライブDVDを観られることを、お勧めする。


『黒木渚論・・・「美しい滅びかた」の歌詞と音楽とMV』

黒木渚さんの曲に、「美しい滅びかた」、という曲がある。人生の達観という感じがする、歌詞である。ギターには、ナンバガの田渕ひさ子を迎えて、ギター音の切れ味と共に、MVの感じもとても良い。確か当時、ファンクラブのみで、発売より早く聴けた曲だったと思う。

MVにおいては、大掛かりなセットで、「美しい滅びかた」の歌詞を映像化した形式になっていて、観ていて映画を観ているかのような感覚に陥る。しかし、何といっても、この曲はメロディが良い。そして、歌詞とのバランスも絶妙な、音楽が鳴っている。

本論の表紙絵においては、この「美しい滅びかた」の一場面を描出して、書いたものを、使用している。何か、少し寂し気な黒木渚さんが、蹲って居て、小説「檸檬の棘」での、孤独感の様なものが看取出来たので、使用してみた。それにしても、名曲である。


『黒木渚論・・・粗製乱造の世の中に、無垢』

現代は、もうAIで、小説も映像も何もかもが、実現できそうな世の中になってしまった。云わば、粗製乱造の度を越した状態である。実際、これが世の中の流れだとしたら、それはそれで、受け入れるべきなのかもしれない。

ただ、アルバム「器器回回」において、そんな世の中に警鐘を鳴らしている、黒木渚が居る。黒木渚の棘で、初めて聴いたが、こういう状態を、シンギュラリティと呼ぶそうだ。確かに、セルフレジ辺りから、その兆候はあったのだ。

何も、悪い事ばかりではあるまい。人類の役に立つことを、機械がやってくれるなら、それに越したことはない、と自分は思う。しかし、芸術に至っては、シンギュラリティは大敵である。芸術というより、芸術家と言った方が、適切だろうか。

人間の想像によってなされる芸術が、その想像を機械が超えるなどということが、一体全体あるのだろうか。自分には、分からない、としか言いようがない。ただ思うに、有り得ない気もする。今や自分は、黒木渚さんが、最後の砦になっているように思われる。

ただ、黒木渚さんも、プロフィールの背景に、AIを使われた。これはもう、覚悟を定めたとしか言いようがないのだろうか。しかし、機械と言えども、人減の心までは分かるまい。心の純粋無垢まで超えられたら、我々が、機械に支配される時が来たことになる。

粗製乱造の世の中に、無垢が有って貰いたい。少なくとも、黒木渚さんは、芸術においては、芸術家として居て貰いたい。その努力で、我々を感動させて貰いたい。自分は、シンギュラリティと、真っ向から対決する覚悟で居る。


『黒木渚論・・・壁をぶっ壊して行く姿勢』

黒木渚※の強みは、何といっても自力で目の前の壁をぶっ壊して行く姿勢にあるだろう。独立後、初めて発売された、「独立上昇曲 第一番」においても、この様に歌われている。

「世界のカラクリ くたびれたルール 粉々にぶっ壊して 身軽になって そこから始まる」/「独立上昇曲 第一番」

こういう態度で世界に臨めば、きっと自分の侭で、未来へと進むことが出来るだろう。

こういう、「壁」という言葉には、一つの歴史がある。自分は、壁の専門家ではないので分からないことが多いが、知恵を絞って出てくる「壁」は、まず、安部公房の、第25回芥川賞を受賞した小説、『壁』、である。

小説において、黒木渚さんは、『壁の鹿』を発表し、安部公房の系譜に入る形になる(本人の意図したところかは判断できませんが)。そして、現在、夜のまどろみで、黒木渚さんが創作した、『土壁』である。壁をぶっ壊して来た黒木渚さんだからか、この作品もぶっ飛んでいるので、是非、聴いて貰いたい。


『黒木渚論・・・歌詞に置ける方法論』

黒木渚※の歌詞は、斬新な歌詞である。今まで誰も歌わなかった様な歌詞である。時に驚嘆と崇拝を感じさせられる、それらの歌詞において、メロディとはかけ離れた次元において、一つのアルバムは、一つの詩集の様である。

「自分が先天的に与えられたのは、声だけだと思ってます、その他のものは頂きものだと(略)」思うという、黒木渚さんだが、芸術家のほとんどが、そうだと自分は思う。先天的に与えられた声があるだけでも、素晴らしいことだ。何を隠そう、黒木渚さんのファンの殆んどは、黒木渚さんの声のファンでもある。

自分に置き換えては、高校生の頃までは、ろくにまともな文章なんか、書けなかった。小説を読んで、音楽を聴いて、育ってきた文章である。黒木渚さんの方法論は、声に裏付けられた、博識的言語使用の、ポストモダン的センスの入った、発語、ではないだろうか。最近特に、夜のまどろみを聴いていて、そう思う。


『黒木渚論・・・.なーちゃん村に置ける黒木渚の位置』

ファニコンの黒木渚※の村、通称、なーちゃん村、というのが、存在していることを、これを読んで頂いている方はご存じだろうか。その村の村長とされるのが、黒木渚さんである。毎日毎日ではないが、結構な頻度で、その村に姿を現して下さる。

そのコミュニティには、村人なるものが居り、時に、グルチャの中で、会話などが成立している。当たり前のことだが、黒木渚が姿を現すと、大勢の村人がグルチャに集まって来る。村長であることもあるが、一種の人徳を黒木渚さんは持っていて、賑やかにチャットは進行している。

自分は夜は寝ていることが多いので、余りグルチャに加わらないこともあるが、村人達、そして、なーちゃん村に置ける黒木渚、即ち村長とグルチャで会話をしたい方には、とてもお勧めのコミュニティである。黒木渚さんを含め、村人全員、優しい方ばかりで、居心地が良いと思います。


『黒木渚論・・・優秀なる英語力を、視座に据えて』

黒木渚さんは、大学院を卒業している。ウィキペディアにはこうある。

「福岡教育大学大学院教育学研究科英語学英米文学専攻に進んで近代英米文学におけるポストモダン文学を研究」ウィキペディアから

時に、黒木渚さんが、英語を話す時の流暢さは、多分にこの学歴で学んだ能力からであろう。曲の中で、英語の歌詞が出て来る時も、一般のアーティストとは全く異なる、流暢な英語の発音で歌われている。

自分の話に引けば、英検2級は持っているが、まあ、塾に行って対策を練って取った訳で、ほとんど形だけの、英語などほとんど話せない、無残なものだ。そういった意味においても、黒木渚さんの、優秀なる英語力を、視座に据えてみると、歌詞の英語に着目が行く。

「It’s empty in the guitar. The hole is dark and deep as it swells me, as it swells me.」/「あたしの心臓あげる」

「Story tastes like salt」「Story in my head」/「Gatsby」

この様に、代表曲、「あたしの心臓あげる」、と、最新曲、「Gatsby」の歌詞を載せてみた。

英詞が乗ると、随分と、曲の感じが変容するというものだ。我々は、この流暢な英語の発音によって、或る種の聴き心地の良さと共に、黒木渚の世界へと没入するのであって、勿論、日本語でも良いのだが、英語もまた、格別だと言いたいのである。

やはり、日本語と英語の比較になってしまうが、発語の音に関しては、英語の方が多いと言うのが適切だろう。しかし、日本語の場合は、方言などを含めると、語彙に関しては、日本語の方が英語より多いのではないかと思う。

結句、要は、英語も日本語も、言葉の知っている数が多ければ多い頬、表現のキャパシティが増えるということであって、自分も小説などを読んで、新しい言葉に出会う度に驚きがあるが、少なくとも黒木渚さんのキャパシティには、追い付けないだろうと思っていることを、視座に据えたのである。


『黒木渚論・・・黒木渚の行方』

初めての黒木渚※のライブ、「ふざけんな世界、ふざけろよ」の大阪でのライブを観に行ってから、どれくらい月日が経っただろう。黒木渚さんと共に、時間を共有して来た、とは言える。アルバムが発売する事に購入したし、大阪でライブがある事に、参加して来た。

今年の黒木渚のテーマは、「耽美」である。その事実に追い付こうと、青空文庫で谷崎潤一郎を探ったり、元々持っていた、ボードレールの詩集を引っ張り出したりして、それら耽美の、相関図とでも言おうか、そのことを気に留めている。

今後、具体的に、今年がどのような年になるのかは、「耽美」以外には見えてこない。「土壁」もキーポイントになりそうだが、具体性は見えてこない。黒木渚の行方はどうなるのだろう。期待としては、、ジャズとのコラボをビルボード大阪で、耽美的ライブを大阪で、という風に、今年2回はライブに参加出来たらと、思って居る。

【第二章】

『黒木渚さんとアルコール』

黒木渚さんとアルコールには、深い繋がりがある。自分はほとんど、アルコールを飲まないので、ビールや日本酒の銘柄などが分からないのだが、黒木渚さん曰く、飲み始めると、段々と心地よくなっていくとのことである。

自分は、黒木渚さんが、アルチュール・ランボー、にならないか、余計な心配をしているのだが、心地良くなるのなら、人生において、良い事なんだろうと思われる。自分は、一日、10杯はコーヒーを飲むし、執筆がはかどるので、飲んでいるのだが、これもやはり、20杯くらいになると、自分でも度を越していると思う時がある。

何れにしても、黒木渚さんとアルコールは、切っても切り離せない縁の様だから、長生きされるなら、良き縁なんだろうな、と思いながら、配信などを観ている。最上の極楽なら、黒木渚ファンも、アルコールヲ飲んでいる黒木渚に、酔いしれる、と言ったところか。


『黒木渚論・・・何故、ジャズと相性が良いのか』

黒木渚※による、喉の調子が良くなった、という発言が去年あった。ビルボードでのジャズコラボの時の話である。自分の推測になるが、或る種の不協和音としてのジャズに対して、黒木渚の全うな音の正確さの怒りが声になったのではないか、ということだ。

自分の声の音感が正しい、という怒りに、ジャズが絡まって、あのように素晴らしいライブになったのではないか、と思うのだ。必聴は、「ダ・カーポ」だった。あのビルボードライブ大阪での、「ダ・カーポ」だけは、忘れようと思っても忘れられない音像である。

上記した様な内容で、何故、ジャズと相性が良いのか、が一応、解明出来た様に自分は思うが、どうだろう。ジャズの音に捉われずに、音感の正しさの対極を行った黒木渚の声としての音楽は、本当に素晴らしいものだった。是非、今年も、期待したい。


『黒木渚と明暗について』

黒木渚※が、夏目漱石の『明暗』を読んだことがあるかどうかを、自分は知らない。自分も、さっと読んだくらいで、それも昔のことだから、ほとんど覚えていない内容なのだが、現在でも引っ掛かる、このタイトルなのである。『明暗』、である。

明るい方に転ぶか、暗い方に転ぶか、人生の起点になる時の、それはどっちだ、的なことだと思われるが、なかなかに、夏目漱石も、面白いタイトルを付けたものだと思った。自分は今、黒木渚と明暗について、考えている。

それはまさに、芸術的な勝利と敗北、商業的な勝利と敗北、この明暗である。芥川賞を取れるまで行くかもしれない、武道館に行けるかもしれない、という明と、そうでなかった場合の暗である。しかし、心配は無用であって、固定ファンは居るし、最終的には、良き位置に行くと自分は思って居る。


『黒木渚さんと、syrup16g』

黒木渚さんは、去年、syrup16gのライブに行かれたと、仰っていたと記憶している。自身も、去年、大阪でのsyrup16gのライブに行ったので、何か嬉しかった記憶がある。自分の中では、黒木渚※とsyrup16gは、音楽界の双璧なので、重要な事だったのだ。

syrup16gは、昔一度、解散している。解散のライブを、武道館でやったのである。自分もそのライブを観に行った過去がある。学生時代に、syrup16gに熱狂し、何度も何度も、音楽を、syrup16gの音楽を聴いた、という過去があって、今がある。

無論、黒木渚さんに言って貰いたいのは、武道館である。syrup16gが武道館でライブをして、そのオープニングアクトで、一度、黒木渚さんがライブをされたら、最高だな、と思うのだ。そして、次のステップとして、黒木渚さんが、単独で武道館ライブをすれば、これ以上ない形だと思うのだが、自分だけだろうか。心からその道筋を、希望する。


『黒木渚さんへの入場形式としてのお勧め』

まず、黒木渚さんへの入場形式としてのお勧めは、最初に、ベストアルバムを買うことである。「予測不能の1秒先も濁流みたいに愛してる」というタイトルである。このアルバムを聴けば、黒木渚さんに、まずは入場したことになるだろう。

次に、最新アルバム、「器器回回」を、黒木渚さんのオフィシャルショップで買ってみて貰いたい。最新の、黒木渚の状況と音楽性が分かるだろう。このアルバム、中毒性があり、何度聴いても、飽きない仕組みになっていると思います。

そして、その後、黒木渚さんが出版している小説を、面白そうだな、と思うタイトルからで良いので、手に取って、読み始めて貰いたい。お勧めはやはり、自伝的小説、『檸檬の棘』になる。黒木渚さんへの、入場形式を、簡単に述べてみた。


『黒木渚論』ー黒木渚、その生と死に於ける美学ー

実のところ、黒木渚さんが、生や死について、どの様な人生観を持っているのかを、自分は知らない。しかし、作品から、想像することは出来る。例えば、作品論で述べている、「美しい滅びかた」などからは、美しい侭で死へ辿り着きたい、という美学が伺える。
死を意識することを、自分は余り考えてこなかったほうである。楽観的に、生きて来たが、「美しい滅びかた」を聴いて、余生のことを考える様になった、という経緯がある。無論、小説で、自分は様々に生や死について、書いてきてはいるが、観念的な側面は否めなかった。

黒木渚さんは、その点、達観しているように見え、「死に損ないのパレード」でも、割と死を、少なくとも音楽的には、楽観的に捉えている様に、音楽からは聴こえてくるのであって、我々もまた、その楽観主義とでも呼べば良いか、その姿に救抜されているといえる。
それは、黒木渚の棘でも同じ様に、懸命に、リスナーからのメッセージを、受け止める姿勢が有り、我々はそこでもまた、救抜されている。こういった、楽観性というものが、どこからくるのかは、判然とはしないのだ。

ただ、昔、自分が黒木渚の棘に送ったメッセージで、「ふざけんな世界、ふざけろよ」が、社会風刺の歌詞なのに、何故こんなに曲調が明るいのか、という疑問を送った時、「ウェット」という曲を持ち出した上で、暗い歌詞の時に曲調が明るくなる、という、一種の癖の様な事実を述べられていたと、記憶している。
すると、歌詞が死を、曲が生を、表現している場合があるということに、行き着くのである。そういった芸術姿勢が、黒木渚の美学だ、という、一つの仮定が出来上がる。「命がけで欲しいものひとつ」という曲も、大変明るい曲調だが、歌詞は、欲しいもの一つへの、苦難の道のりを言っている様にも読み取れる。ここに、ー黒木渚、その生と死に於ける美学ー、の全体像を、記したことを、結んで置く。


【第三章】

『おわりに』

今回のコンセプトは、表紙絵にも使った、「美しい滅びかた」に依拠する形で始まった、『黒木渚論』ー黒木渚、その生と死に於ける美学ー、が中心となっている。3、4日で書き上げた、随分と疲労した中にも、全て未発表という、達成感が勝っている。黒木渚さんに於いては、この黒木渚論が、どういう意味を持つかは分からないが、自分が出来ることを、黒木渚さんのファンをもっと増やし、良さを分かって貰うことを、念頭に置いているので、書き終わったあとは、よんで頂ける人が居るのを、待つばかりである。自分としては、表紙絵がとても、気に入っているので、細部まで、見て貰いたい。これにて、『おわりに』を結ぼうと思う。

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