芥川龍之介論ー賭博という事についてー

芥川龍之介論ー賭博という事についてー

芥川龍之介は、『侏儒の言葉』の中で、こう言って居る。

賭博

偶然即ち神と闘うものは常に神秘的威厳に満ちている。賭博者もまたこの例に洩れない。
            又
古来賭博に熱中した厭世主義者のないことは如何に賭博の人生に酷似しているかを示すものである。
            又
法律の賭博を禁ずるのは賭博による富の分配法そのものを非とする為ではない。実は唯その経済的ディレッタンティズムを非とする為である。

『侏儒の言葉』/芥川龍之介

芥川らしい分析だと思う、その反面、芥川の小説とは、一種の賭博に似ていたと考えられなくもない。

例えば、『玄鶴山房』の構成が、失敗だったかもしれない、と作品成立後に述べたりするのは、小説の執筆に、当たりや外れ、の認識を抱いているからである。普通の小説家は、作品が出来たら、とやかく言わずに、世に差し出すものだ。その点、当たりや外れを言うのは、芥川にとって、小説執筆が、一種の賭博の様なものであったのではないか、と思わせる節がある。「偶然即ち神と闘うものは常に神秘的威厳に満ちている。」という文章からは、芥川が、「神秘的威厳」を知っていたという明証となり、「偶然即ち神と闘うもの」とは、自身の事も言って居ない訳ではない。

芥川龍之介論ー賭博という事についてー、として述べているが、要は、芥川は賭博狂だったのではないか、ということである。勿論、実際の賭博ではなく、芸術における賭博狂である。だとしたら、敗北の文学の様に言われることも、芸術に対して、一種の勝ち負けのスタイルを取っていたという風にも捉えられよう。

芥川は、拙稿の既出芥川論でも述べて居る通り、文學に敗北したとは思わない。寧ろ、文學に勝利したからこそ、今日まで、芥川龍之介賞という、素晴らしい賞が残っているのだから。しかし、芥川賞を取るか取れないか、これもまた、小説執筆者にとっては、一種の賭博に似ている。最終選考にまで残っても、芥川賞を取れるのは、一人か二人、である。しかも文学は数学ではない。確率で賞が取れるならば、誰だって最短ルートが見つけられるはずだ。選考委員の時代把握や、文学的価値観においても、賞の受賞に大きく左右されることになる。そういった意味も含めて、芥川龍之介論ー賭博という事についてー、を書いてみた。

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