埴谷雄高、日本文学史に於ける【役割論】
埴谷雄高、日本文学史に於ける【役割論】
㈠
埴谷雄高が、日本文学史において、大きな役割を担って居たことは、これまでも様々な角度から述べて来た。それは、前代未聞の長編小説『死霊』であったり、新人作家の発掘であったり、それこそ、安部公房との系譜関係も大きなことだ。しかし例えば、三島由紀夫が、埴谷雄高に対して、
「埴谷雄高氏は戦後の日本の夜を完全に支配した」
と言ったことは、大きな問題である。問題と言っても、良い意味での問題であり、これは、あの三島由紀夫が、埴谷雄高を認めていた、という事に他ならない、ということである。あの精緻な文章を書く三島由紀夫とは、かなり真逆の文章/文体、である埴谷雄高を認めた、ということは、実際、驚くべきことだ。
㈡
こう言った経緯からも、埴谷雄高が、日本文学史、それも、「戦後の日本の夜」における文学史において、決してなおざりには出来ない、どころか、その中核に埴谷雄高が居たということだから、最重要人物だったということになる。つまり、「戦後の日本の夜」を担う、役割だった、ということになる。無論、三島由紀夫の発言だけで、そう決定付けてしまうのも、些か早急かもしれないが、多くの小説家に慕われた埴谷雄高、であるから、【役割論】として述べて居るこの埴谷雄高論も、適当なことを言って居る、とはならないだろう。この埴谷雄高の役割を認めることは、例えば、『死霊』や『闇のなかの黒い馬』などを、日本文学史のある場所に、決定的に刻んでも差し支えない、ということになる。
㈢
埴谷雄高、日本文学史に於ける【役割論】、として述べているが、元々、こう言ったタイトルで述べたかったのには、上記している三島由紀夫の発言が大きい。こうしてみると、埴谷雄高は、日本文学史の系譜においても、様々に先頭に立っていることが分かる。埴谷雄高ー安部公房、の系譜。埴谷雄高―吉本隆明、の系譜。そして、埴谷雄高ー三島由紀夫、の系譜である。しかし、この系譜の分け方は様々で、安部公房だと文体、吉本隆明だと思想、三島由紀夫だと認知、という観点からの系譜になるだろう。とにもかくにも、こう言った状況下において、埴谷雄高の日本文学史に於ける、役割というものは、非常に重要なものだった、と言えるのではなかろうか。確かに、そうに違いない、という結語で以って、埴谷雄高、日本文学史に於ける【役割論】、を終えようと思う。