飛び降り自殺のMVの系譜ーその救い方ー
飛び降り自殺、聞いても背筋がぞっとする言葉だ。しかし現に、そういうことをして、自殺する人が、現代でもいることは確かである。
ところで、現代の音楽には、MVと言うものが付きものである。これは、一種の宣伝、又は拡散の方法であっただろうが、近年は、MVに力が入っている傾向にあり、様々な映像で、極の魅力を、何段階にも上げているのだ。
ここで、飛び降り自殺のMVの系譜ーその救い方ー、について述べてみたい。
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まずは、L'Arc〜en〜Cielの、「DIVE TO BLUE」が。自分が知っている限りの、初めの飛び降り自殺のMVである。ここでは、最初に飛び降りた或る人が、最後にもう一度、どうするか試される内容になっている。
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次に、syrup16gの「遊体離脱」では、本当に、ボーカルの五十嵐さんが、飛び降りる内容になっている。当時、このMVを見た時、衝撃だったが、死んでしまいたいくらいの思い、というものが、看取出来る内容である。
㈢
次は、黒木渚さんの「檸檬の棘」である。ビルの最上階で歌いながら、途中で右側へと飛び降りてしまう。結果がどうだったかは、MVの中では表現されないが、我々は、その映像に、何かを感じ取るのである。
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最後は、甘い暴力の「死に方を教えて」である。これは、MVで、途中、フェンスを越えるが、戻って来て、死に方は教えない、と歌われる。自殺させないという、歯止めになる。飛び降り自殺のMVの系譜は、ここで救われる。
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この様に、飛び降り自殺のMVの系譜ーその救い方ー、として述べて来たのであるが、芥川龍之介や、カート・コバーンがやった、自殺というものが、日本の土壌において、一種の美化された現象を、食い止めることが出来たのではないか。いつかどこかで書いたが、もう、自殺して名をあげる文化は、廃れている傾向にある。天皇崇拝の特攻隊美学など、今思えば、どうかしていたと思うのだ。無論、彼らの行為によって、今の我々がある、と言う事実に変わりはない。しかし、自殺を美化するのは、間違っている。与えられた生命を全うすることが、生命を持った人間の意味というものだ。まだまだ書き足りないが、一先ずここで、筆を置くことにする。