長崎のお盆と精霊流し
長崎に移住して3年になるが、精霊船はまだみたことがなかった。
昨年テレビで長崎市内の精霊流しの中継録画をみて長崎の精霊流しに興味をもった。
一般的な精霊流しというと、小さな小舟に故人の名前などを書いて川に流すものだが、
長崎の精霊流しは、まず船が違う。大きい。
現代の精霊船は、船の形をしているが
下に車輪が付いていて数人で街中を引いて歩く
そのとき爆竹を鳴らすのだが、長崎市内は火をつけた爆竹を道に投げたりもOKのようだが
地域や区間によってはダメで、精霊船の横にバケツのつけたカートを一緒に引いて、そのなかで爆竹を投げて鳴らすということをする。
こうした長崎の精霊流しの起源は江戸時代の中国との交易によって生まれたとされる
長崎というと出島のオランダ交易のイメージが強いが、歴史的な長さでいうと中国との付き合いが長い。長崎では中国人のことを「唐人」とよび、彼らの文化を「唐人文化」という。
その唐人文化のなかに、長崎に滞在中に亡くなった者を弔う「彩舟流し」という風習があり、調度品まで精巧に作った船を浜辺で燃やすのである。
それまで精霊流しは長崎でも菰(こも)とよばれるムシロのようなものにお盆のお供えものをくるみ海に流すものだったが、この彩舟流しに参考にしたのか、ある唐通詞(中国語やアジア言語の通訳者)が小舟を作って海に流したのがいまの長崎の精霊船のはじまりらしい。
精霊船はいわゆる初盆を迎えた家がつくるものだが、地域や町内でつくる合同の精霊船「もやい船」もある。これに各家の菰に包んだ供物を乗せて波止場までいって海に流すなどをしていた。
現在は、町内会や地域のつながりが希薄になり葬儀屋が精霊船をつくるようになっている。
ペット火葬による精霊船も増えてきている。
精霊流しは唐人文化の影響を受けているけれども長崎は戦国時代に全国からキリシタンが集まり豊臣秀吉から徳川時代の長きにわたり禁教政策をしかれたが信仰をまもりつづけた潜伏キリシタンがいた。
そのため私は長崎のお盆や精霊流しを見ていると、ふっとハロウィンのような西洋的なものや、南米の死者のカーニバルのような異国感を探してしまうのである。
また町内のもやい船の印灯籠には、長崎くんちにまつわるモチーフも多い(個人の精霊船には故人が好きだったものをデザインすることが多いようだ)
長崎くんちはもともと、禁教政策により幕府から強いられた行事だったが、長崎町民はそれをキリシタンのパレードを日本風や唐人風にしてカモフラージュして生まれたものだという。
長崎の文化は日本や世界の歴史の波の狭間で揺れて
形成されてきた面白いものだと思う。