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『エッセイ編1・漫画家デビュー』

私は20歳の時に漫画家としてデビューしました。

講談社の『週刊少女フレンド』でした。

集英社の『週刊マーガレット』がライバル誌でした。


同期は、今や巨匠の、里中満智子さん、大和和紀さん。

そして、青池保子さん、杉本啓子さん、

さらに、庄司陽子さん、吉田真由美さん、

などです。

この中で、お話ししたことがないのは、

パーティーにめったに顔を出さなかった、
大和和紀さんだけです。それでも、
その頃、僕の担当編集者だった木野さんが、
現在、大和さんのご主人になっています。

木野さんは、とても感じの良い人で大好きな編集者でした。
私に「おかきん」と言うニックネームをつけてくれました。
それ依頼、編集部内では、私はずっと「おかきん」と呼ばれていました。

木野さんは、やがて、
『週刊モーニング』に異動。
「課長、島耕作」の担当者になりました。


少女漫画界では、男性のギャグマンガ家が少なかったので、

珍しさもあったのか、連載が10数年続くという、

とても順調なスタートでした。


ところが、20代後半、

家庭を持った頃から、仕事に翳りが出てきました。


独身時代は気楽に楽しく書いていました。

住まいは、6畳一間のアパートで充分でした。


ところが、

結婚すると、そうもいきません。

マンションに引っ越しました。

家賃は、アパートの数倍になりました。


気がつくと、いつの間にか、漫画を描くことが、

生活費を稼ぐための手段に変わっていました。


そうなってくると、漫画を描くのが、

だんだん楽しくなくなってきました。


描いている本人が楽しくないのですから、

当然、人気は落ちていきます。


連載のページ数が徐々に減っていきました。

収入が激減し、生活が苦しくなってきました。


その反面、同期の漫画家たちの中からは、

ヒット作を出す人たちが出てきました。


年収数千万円を超える、人気作家が何人もいました。


売れっ子たちは、とても華やかな生活をしていました。

中にはテレビ局から、取材される人もいました。


その頃の私は、

うなされるように、いつも心の中で叫んでいました。


「ぼくも売れっ子になって輝きたい。

なんとしても、輝きたい、輝きたい、輝きたい!

テレビ局から取材されたい!」


そして、ある日。

恐れていたことが起こりました。


『少女フレンド』の連載が打ち切られたのです。


担当編集者に、

「あなたはクビです」と言われたわけではありません。


とても穏やかに、

「長いこと連載をされているので、

お疲れもたまっていると思います。

気分転換に、ちょっとお休みしてみませんか?」と、

提案されたのです。


実は、それが、クビ宣告だったのです。


週刊誌の連載だったので、収入もそれなりにありました。


それがいっぺんに、なくなってしまったのです。

漫画家は自由業なので、その日から収入がゼロになりました。


単行本がでたときは、とてもうれしかったです。



死に物狂いの努力が始まりました。

新作の漫画を描いて、編集部に持ち込みをしたのです。


断られるたびに、さらに死に物狂いになりました。


ところが、ムキになって、努力をすればするほど、

状況はさらに悪くなっていくのです。


今ならわかるのですが、

これは〈黒い努力〉だったのです。


黒い努力と言うのは、自分のやることなすことが、

ことごとく、悪い結果になってしまう努力です。


なんだか、とても悪いことのようですが、

実は、神様の親切なのです。

「そっちの道は、違いますよ」と、わざわざ、
サインを送ってくれていたのです。

後年、このことがわかりました。

逆に〈白い努力〉というものがあります。

これは特に努力しなくても、不思議なぐらい、

とても良い結果が出てくるのです。

神様が、

「あなたの進む道は、間違いなくこっちです!」という、

オーケーサインなのです。


         つづく⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️

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