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『晩菊』(原作:林芙美子 1954年6月22日公開)を観て


『晩菊』

この映画は、女性にとってはある意味痛快なお話だと思う。確かに女性に人気があった作家ということは感じれた。男をコケにして、ドライな女心を描いていて、娯楽小説という表現は失礼かも知れないが、当時、気軽に読めて、楽しめるものだったに違いないと思った。

派手な起承転結がないのがこの映画の特徴でもあり、どこから観始めて、何処でやめても良いという日常をあらわしている。登場人物は、おきん(元芸者で今は不動産と金貸しで生計を立てている)、おとみとたまえ(おきんと一緒にやっていた元芸者で、おとみは食堂で働く娘に生活費を援助してもらい、たまえは、働いている息子と同居している、一方で2人は、おきんから借金をして貧乏な暮らしをしている)、関(昔、おきんが無理心中までしようとしていた男、おきんに対する殺人未遂の罪で刑務所で暮らしていたが、出所してきた)、田部(昔、お金が憧れていた男だが、妻あり)この5人の日常が描かれているが、おきんを中心にそれぞれの人との接点の中でいろいろなことが起こり話が展開されていく。

話は、おきんがたまえの家に借金の取り立てに行くところから始まる。行きしなに仕事をしている、おとみのところに寄り、ひとしきり、おとみがパチンコでいろいろと景品を手に入れてきた話やたまえの具合が悪いとの話を聞いたりして、「どうせ仮病でしょ」なんてことをおきんが言い放って、たまえのところに取り立てに行く。おとみのところに行くとおとみは寝込んでいて、おきんに、「すみませんね、おかねは、もう少し待ってください」なんてことを言って、具合悪そうにしている。おきんは、特別激しい取り立てをするわけではなく、「また来ますからね」なんてことを言っては去っていった。

家の近くまで戻ってくると、遠くから自分の家の玄関の前に関が立っていることに気づく。おきんはその場にあった階段道を駆け上がり、そこに隠れて関が去っていくのを待ち、いなくなったのを見計らって、家に帰って行ったおきんは関に会うのを避けたのだ。(この時点では映画を観ている人には誰だか分からないし、なぜ、避けたのかも分からない)

話は変わってある日、なかなか就職が決まらなかったたまえの息子に就職が決まり、北海道に行くことなった、家を出て行ってほしくないたまえであったが、今の生活に嫌気がさしていた息子は北海道に向かった。かたや、おとみの娘は、結婚するということを言い出し、それも年配の男だと言う、そんな男となんてと思うたまえであったが、娘は荷物をまとめてさっさと去って行った。

その後、ついに関が家に現れ、おきんは、お金を貸してくれとせがまれる、しかし、お金は貸さない、玄関で拝み倒す関であったが、やはり、おきんは断り、関は諦めて去っていかざるを得なかった。やがて関が再び警察に逮捕されたということをおきんは、噂で耳に入るのだが、「知らないわよ」ってな感じで我関せずであった。

突然、おきんに昔憧れていた田部から手紙が届いた。おきんの家に行くということが書かれており、おきんは胸がときめき、若い頃の田部の写真を引き出しから出して眺め、その日楽しみに過ごしていた。そして、田部が来る日、髪のセットに出かけ、料理とお酒を準備し、田部を迎え入れる。ふたりは仲良く食事をし、楽しんでいたのだが、ある時点から、おきんは、田部に対して、「いったい、何しに来たのか」、と、思い始める。田部は、べらべらに酔っ払い、ついに「お金を貸してくれ」と思っていたことを吐露する。もちろん、おきんは、それを断った。そうすると田部は家に泊まるといいだすが、おきんはそれをもことわる、が、外を見ると激しい雨が降り出しているではないか、やむなく、酔っぱらった田部を泊めてあげることにした。そして、田部が来る前に眺めていた田部の写真に火をつけ、燃やしてしまった。

翌日田部は去っていき、また、おきんの日常の生活が描かれ、このお話は終わりとなる。

恋愛ものでもない、任侠ものでもない、アクションものでもない、NHKの朝の連ドラのような、そうでないような、とある人々の日常を描いた物語である。

このお話には、おきんのお金に対する厳しさを表にして、多くの教訓が盛り込まれていると思った。ひとつは、昔お付き合いのあった女性に男はお金を借りたらダメだなこと、良かった思い出も一発で燃やされて灰になるぞと、一方で女性も男にお金を貸してはいけないよって、その厳しさを自分自身にも持っておく必要があるよってこと。(今も多くの女性が詐欺にあっているニュースを見る)

つぎに感じたのは、『しょせん他人はあてに出来ない』ということである。たまえとおとみは子供を頼って生活をしていたが、二人とも親から離れて行った。関も田部も、おきんからお金を借りることは出来なかった(おとみとたまえはお金を貸してもらえていたにもかかわらず)。親子関係の形は様々なものがあると思うが、少なくとも、人を当てにせず、やっていけるようになっていないと、いつ、どうなるかわからないということ、そして「去る者は日々に疎し」ということで、昔どんなにいい関係の男女であっても落ちぶれると昔と同じような感情は女性に持ってもらうことは出来ず、冷たくされるということである。

おきんは、男の影もなく、女ひとりで生きているが、さほど、上昇志向があるわけでもなく、お金に執着し、キリキリしているわけでもない、なので、先に書いたが、激しい取り立てをしているわけでもなく、贅沢するわけでもない。日々淡々と、浪費をせずに過ごしている、なので、おきんに対して冷たさや、非情さを感じることがなく、好感が持てたのかもしれない。これが、その当時の女性の自立の姿を現していて、自分自身を表現しているのではないか、と思った。

余談であるが、映画の街、尾道に林芙美子の記念館があるらしいので尾道を訪れた際には、ぜひ、訪問したいものである。

『林芙美子記念館』

では、また。

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