巡礼の在り方を考える
サウジアラビア政府は6月23日、ハッジと呼ばれる聖地メッカへの大巡礼で今年死亡した巡礼者が1300人を超えたと発表。熱中症で手当てを受けた巡礼者は膨大な数に上ってしまったとのこと。異教徒の不幸ゆえどのような表現が適切か分かりませんが、ご冥福をお祈り申し上げます。
この悲劇の背景には一種のオーバーツーリズムの構図があるようで、その対策として同国政府はハッジ許可証を発行して、これを持たない「無許可」の巡礼者は、エアコンの効いた団体ツアーバスの使用が認められなかったり、水や食事も簡単には手に入らなかったり、不利益を甘受せよ(基本、来ないで!)と言われているようです。
サウジアラビア政府は、この許可証を180万通も発行しているそうで、宗教人口から考えれば全然足りませんが、受け入れ側の対応能力に限界がある以上、それなりに妥当な策を講じているように見えます。ただ、許可証の取得には数千USAドルもの費用が掛かるため、誰でも運が良ければハッジできるものではないようです。
一方、ムスリムの教えではメッカ巡礼を義務としているので、地獄に落ちないためには無許可でも巡礼しよう!落命しても殉教みたいなものなので天国行き確定!と考える人々も多くいて、1300人超の死者のうち5人中4人以上が無許可巡礼者というのですから、同国政府の仕事は全く減っていません。遺体の管理や身元確認、遺族への連絡などでご苦労されていることでしょう。無許可ハッジでも最低限の準備はして来いよ、という嘆き声が聞こえてくるようです。
我が国の場合、四国のお遍路さんは、死に装束でもある白い衣服に身を包み、卒塔婆の代わりとなる金剛杖、棺桶の文字が書かれた菅笠を付けて、霊場八十八か所巡りの道中に死ぬことがあっても成仏・極楽往生が叶うと信じて挑み、遍路墓は今でも各所で見ることが出来ますから、信仰の情熱は死の恐怖をも乗り越えます。後の始末をする人たちにはご苦労なことですが。
キリスト教(カソリック)にも、三大聖地への巡礼という信仰行動があって、バチカン市国、エルサレム、サンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)に訪れたい、と願うクリスチャンは今でも大勢いらっしゃいます。バチカンはともかく、エルサレムは歴史的係争地で危険と隣り合わせ、コンポステーラは徒歩巡礼が原則とのことですから遠方の方にとって並々ならぬ覚悟が要ります。
苦難と隣り合わせでないと神仏に申し訳ないと感じるのか、享楽的な色彩があっては恩寵に値しないと考えるのか、艱難辛苦の要素なくして巡礼足り得ないというのが「通念」のようです。
しかしながら、禅宗においては、仏教本来の常軌(戒律など)を逸した行動を敢えて行い、本来は破戒として否定的に言われる行動なのに、その悟りの境涯を現したもの(=オレ流の悟り)として肯定的に評価するという「風狂(ふうきょう)」という概念があるようで、とんちで有名な一休宗純(臨済宗)がその代表格とされます。彼はバイセクシャルで肉食を厭わず、ロリコン趣味を隠さなかったとか。LGBTQの活動家は一休禅師を理想として尊崇せねばなりません。
キリスト教とて、そもそも「修行」の概念はなく、神を信じれば義と認定され最後の審判で救済の対象者になるのですから、難行苦行のような巡礼をする義務はありません。イスラム教でも、メッカ巡礼の義務があるとはいえ、「暮らしに余裕があるならば」という条件があるようですから、死んでも来い!といった理不尽なことは求めていません。
こう見れば、それぞれの戒を意識しつつ楽しく快適に巡礼をしても問題ないということもできます。ちなみにですが、高校野球の強豪校を擁する天理教の場合、「親神によって実現さるべき救済の理想は、神が人間創造にかけられた目的の成就とも言うべき陽気ぐらしであり、それは、すべての人間が相たずさえて、生きることの喜びを享受しうる完成された人生であると言うことができる。」と、楽しむことが義務という発想を持っています。
苦しむことは必須ではないのですから、明るく楽しい聖地巡礼という旅行の形は新しい旅行市場になると思うのですが、いかがでしょうか。
かつて、我が国では有名な神社仏閣を参詣した後に「精進落とし」と称して、俗世界の生活に戻るため遊興のひとときを楽しんでいたとのことですので、歴史に学ぶ価値はあると思います。もっとも、東海道の川崎宿では、川崎大師の御札を売っていて、参詣をせずに遊興だけをしたいというニーズにも対応していたのだとか・・・