ダンサブルで愉しい曲調と、闇深く複雑な人間関係が潜む歌詞との組み合わせが癖になる、キノコホテルの「ヌード」の話
気が付いたら終わっていた2024年1月。
元日から大変なことが立て続けに起き、胸がふさがれるような気持ちを抱えつつ、たまたま日常生活を営める状態の自分がいつも通り生活することでできる支援もあると信じて、1/6のロックンロールサーカス神戸にキノコホテル目当てで遊びに行き、いつもよりパワフルで荒ぶるロックンロール仕様な音の響きが良いなと思ったり、会場の神戸VARIT.の照明がキノコホテルが一番映える色のチョイス、かつ曲の展開(Aメロ、サビ、間奏…)ごとにタイミングよく綺麗に切り替わるという綿密さでファンとして見ていてうれしくなったり、名古屋2daysではじめてお会いする先輩胞子の方々にご挨拶させてもらったり、スナック東雲に参加したほろ酔いモードが醒めないまま月曜日が終わってしまったりした。
さて、本題の「ヌード」の話。
もともと雪景色になった成人の日の朝、なぜか頭の中をこの曲が回り始めて、いつも通り(?)「わーーーーこの曲好きーーー!!!」の気持ちがやたら膨らんで外出中にも関わらずにやけが止まらなくなってしまったので(ただの不審者)、とりあえず自分を落ち着かせるため、この曲の何が好きなのか、なんでそう感じるのか、文字にして整理しようと思ってループ再生したのがはじまり。
もともと、どこか懐かしくもリズミカルでつい踊りだしたくなってしまう曲調が楽しめるところと、普通に生活していたらたぶん経験できない(というよりは経験しない方がよさそうな)そこはかとなく香る密やかで大胆な艶っぽさや、内緒でいけないことをする時の高揚感や愉しさが味わえるところがたまらないなー、と思っていた。
その辺りをもう少し詳しく文章に、と思ってあらためて歌詞を見ていたら、なんだか自分が思っていたよりもどんどん歌詞中の2人の業の深さが増す一方で、
「え、こんなに闇深い(…とも解釈できる)人間関係を、こんなに恰好良く痛快な曲調にのせて歌ってたの?それでいて、こんなに聞いていて気持ちの良い曲にまとめあげている支配人のセンス、ハイレベルすぎるのでは」
とあらためて思ったものの、現X(元Twitter)で掘り下げて表現するには内容が複雑かつディープすぎたため、あえてぼかしてつぶやくことにした。
それがこちら↓
このnoteで書く内容も、つぶやきと大筋は変わらないのだけど、ここから先は、つぶやきでいうところの「これが初めてではなく独り身でもなさそうな「貴方」」と解釈できるのではと感じた歌詞のこと、それを踏まえた「貴方」と「私」の関係をもう少し深掘りして、「ヌード」の歌詞がひっそりと湛える闇に触れたいと思っている。
それにあたり、昔、お昼に放送されていたメロドラマのような、いわゆるどろどろ人間関係な表現が少し出てくる。
その手の話が苦手な方には申し訳ない気持ちもあるのだけど、つぶやきでは踏み込めなかったその部分にこそ、この曲の奥深さを感じられる要素がたくさんあると思っているので、どうかご容赦いただけたら。
(苦手な方は無理のない範囲でお読みいただけたらと思っています。)
単純に音や曲調メインで聴くだけでも楽しいのに、よく見るとものすごい密度の人間関係の闇があるようにも(受け取りたい人には)受け取れる絶妙な余白を持つ歌詞なのがキノコホテルならではという感じがして、すごく好きなポイントでもあり、まあつまりはどうしても書きたいので書かせてくださいという、いつものパターン。
そういう話、全然大丈夫!という懐の深い方は、「こんな風にあれこれ考える人もいるのか、へー」という感じで、お手柔らかに受け止めていただけたらとてもうれしい。
1.大胆な”私”と戸惑う”貴方”のうしろめたい関係にどきどきする、映画のような幕開け
最初からなんとも艶っぽくて、成人した身で聞いても、毎回どきどきして引き込まれてしまう冒頭の歌詞。
ドレスにはいろんな種類があるけれど、”私”が投げられる重さや大きさということは、結婚式やちょっとしたパーティでゲストに呼ばれた時に着るような、比較的軽いワンピースタイプのものなのかなと想像しては、肩からなめらかに滑り落ちて足元にわだかまるドレスとそれを投げる”私”、拾い上げて胸のあたりに抱えたまま戸惑う”貴方”という情景が、流れるように頭に浮かぶ。まるで映画のワンシーンみたいだなと思う。
”大人の秘密 重ねる言い訳”という表現、それぞれの言葉を単体で聞いただけでもどきっとするのに、2つを連続で歌われると「えええ、どうなっちゃうんだー!?」というどぎまぎ感と期待感がものすごく膨らむ。
そうして聞き手の想像を煽ったその上で、”裸で何を言っても滑稽だわ”という、ちょっと皮肉で冷静な言い回しが入ることで、”私”は訳ありな2人の関係を楽しもうとしつつも、「何がいけないことなのか」という世間一般寄りの常識、いうなれば正気を失っておらず、許されないことをする自分と”貴方”をどこかで客観視していることがわかる。衝動はあっても、目の前のことに溺れて舞い上がりすぎていない感じが現実的でいいなと思う。
そもそも一糸まとわぬ姿で発言するという場面、例えどんなに心からの真剣な言葉だったとしても、何も身につけていないという見た目の無防備さとのギャップにどうしても可笑しさが生まれてしまうと思うのだけど、ここではさらに”言い訳”という、自分の欲望を正当化するための、虚飾そのものでしかない言動を取っているわけで、あるがままの姿で、あるがままの心を偽ろうとする矛盾がなおさら際立って、聞いていてつい、くすっと笑ってしまうところでもある。
”綺麗事など聞きたくないの”のパラグラフ、誰にもばれてはいけないうしろめたさと今お互いに感じている気持ちがいつ消えてもおかしくないものであることを自覚しているからこそ、いまさら”綺麗事”≒正論を振りかざされて止まりたくない、だから”貴方”にも止めること/止まることを許さない、”私”のずるくて奔放で今に賭ける気持ちが最短の言葉数で描かれているのが、なんとも気持ちいい。
特に”日陰に咲く 企み”という表現が個人的にとても好きで、花が咲いている時間は植物の一生から見ればほんの一瞬で、咲いたあとの花はもれなく地に落ちるか枯れるかするイメージがあり、この”企み”が日常にはなりえない刹那のもので、だからこそ手放せない妖しく煌めく魅力を放つこと、さらにそこに”日陰”という表現が加わることで、私”はうしろめたさや悪いことをしている自覚を持ちつつも楽しむことをやめられないでいる様子がとてもよく伝わってくる。
歌詞にはないけれど、曲中では”企み”の後に続けて「ああ~」と歌い上げるところも、どうにもならない気持ちを吐露しているような感じが伝わってくる気がして楽しい。
2.”じりじり””ずぶ濡れ””まだ”の意味をつい深掘りしたくなってしまう最初のサビ
因果応報を悟りつつも思うままに行動する奔放さが潔くて楽しいサビ。歌詞全体から漂う内緒の悪巧み感と、愉しみながらも行き止まりへと転がり落ちていく退廃的な雰囲気がなんとも魅力的で、もうにやけが止まらない。
文章のボリュームの都合で、”じりじり””ずぶ濡れ””まだ”という言葉それぞれについて書くパートと、それをふまえてサビ全体を考えてみるパートの、計4つに分けて書く。
○”じりじり”のこと
冒頭の”じりじり”という言葉、ここでは、
の、どちらかで解釈するのが自然で良さそうと思っている。
1の意味だとしたら、終わるまでの成り行きがわかっている”貴方”との関係や駆け引きを、ぺろぺろキャンディをなめるように、最大限長く、じわじわと楽しみたいと願う”私”の強欲でちょっといじらしい様子が、
2の意味だとしたら、終わることはわかっていても今一時、苛立たしく落ち着かなくなるほど、思うままにどうにかなってしまいたいと願う”私”の激情がそれぞれ感じられて、どちらも味わい深くて面白いなと思う。
個人的には欲深さとの意外なギャップが読み取れる1の解釈の方が好きだけど、歌詞中の”私”の大胆さと、いつもそれとなく端正な凶暴さを内包するキノコホテルの歌詞の性質(そこが好きなのでこれはもちろん褒め言葉)を考慮すると、2の意味かもしれないなという気もしており、まあつまりは「どちらの解釈でも最高に楽しい!わーい!」と思っている。(ただの限界胞子。)
○”ずぶ濡れ”のこと
”ずぶ濡れ”、日常生活だとゲリラ豪雨の時やプールの時、お風呂掃除中に間違ってシャワーの栓を思い切りひねってしまった時ぐらいしか個人的には経験がないけれど、いずれにしても、原因がなんであれ、ずぶ濡れになっていく間もなった後も、楽しさの裏に本能的に感じる一種の恐怖や焦りがあり、呼吸するのにも状況把握にも態勢を立て直すのにも、理性でというよりは1つの生物として必死になる感覚と、「どうしてこんなことに?」というような、とにかくひどい目にあったという感情になりがちなことを、この箇所を聞くたびにいつもなんとなく思い出す。水に濡れると体温を奪われる≒物理的な死に近づく感覚になるからかもしれない。
単純に睦言の描写として受け取るのもシンプルでいいけれど、”貴方”との関係のうしろめたさを自覚しつつも楽しむことをやめない”私”という前提に立ってみると、ずぶ濡れになった時のような必死さを”貴方”に求めつつ、
「いっそずぶ濡れになった時に感じるような、ひどい気持ちまでも味わった上で”私”に追いついてほしい(=この先は、”私”が持つうしろめたさのような、重くて苦くてひどい気持ちすら味わう覚悟を持った”貴方”と楽しみたい)」
という、”貴方”への愛の重さゆえにそれと同じくらい傷ついてほしいというような、激重で矛盾する気持ちが描かれているのでは、とも受け取れるようになっているところがたまらない。結末も負い目もすべて背負う覚悟と恋情を相手にも求める、”私”の真摯で苛烈でスリリングな美しさが、さりげなくこの箇所に潜められているようにも感じられる。
つまり聞くたびにどきっとするし、”私”の美しくも嗜虐的な愛の在り方に、柄にもなく「きゃー!!!」と叫びたい気持ちになる。
○”まだ”のこと
実は一番このパラグラフで触れたかったといっても過言ではない、”破滅してもまだ懲りないのね”という歌詞。”貴方”のことを「これが初めてではなく」とつぶやいた理由はここにある。
意味を捉えるために少し言葉を補足してみると、
「かつて(”貴方”は)破滅したのにも関わらず、現在に至るまで(い)まだ懲りていない」
となるのかなと思っている。
ここから、少なくとも”私”は、
・過去に”貴方”が破滅したことを知っており、
・”私”は、(過去の破滅により)てっきり”貴方”が懲り(てい)ると思っていたのに懲りていないことを意外に感じている
ということがわかる。
”私”がどのように知ったのかは定かではないけれど、懲りていないことを意外に思うということは、その際の経緯や、実際にどのような目にあったのかがわかるくらい、”私”と”貴方”の距離は昔から近かったのでは、とも想像できる。
○あらためて最初のサビ全体を考えてみると
その後の”蹴り捨てた昨日””道理の世界よ”という言葉と、ここまでの歌詞を全部つなげて考えてみると、
・破滅した当時の”貴方”を知る”私”と、破滅したのに懲りない”貴方”が、
・公にはできない逢瀬を楽しんでいる現状は”昨日”を”蹴り捨てた”≒これまでの過去をなかったことにしたということであり、
・それは”道理の世界”=すじが通っている(≒当然である)
ということになるのかなと思っている。
”貴方”がかつて破滅したことが事実であり、その顛末を割と詳しく私”が知っていそう、かつ、そんな2人が逢瀬を楽しむことは(2人がそれぞれに)過去をなかったことにする行為であるけれど当然の結果でもある。
…ということは、
”私”と”貴方”は、過去にも今回のような関係になったことがあり、それが原因で”貴方”は破滅に至ったけれど今も懲りていないので、(冒頭でためらいはしつつも)その結果として当然、破滅した過去そのものをなかったことにして、再び同じ関係に陥った(つまりこれが2回目)
とも想像できるのではと思った。
だとすれば、破滅を実際に経験していながらも(恐ろしいけれど、もしかしたら、むしろだからこそ)再度手を染める2人ということになり、半端ではない業の深さにちょっとぎょっとする。
なんというか、こんなに踊りたくなる曲調で描かれる世界観とは、とてもじゃないけれど思えない。欲望渦巻く闇深き人間関係(とも推察できる言葉遣い)と、ミラーボールが回っているようなきらきらと楽しい曲調を組み合わせる支配人のセンスはやっぱりすごいし、誰にも真似できないのではと思う。まさに鬼才。
3.冒頭から終わりまで、意味を追えば追うほど闇が深まる2番の前半
2番のサビ前までの部分の話。
これまで以上に、よくよく考えてみると意味深でどんどん闇が深まる(ようにも解釈できる)この箇所が、今まさに読んでいただいているこのやたら長い文章を書くことになったきっかけであり、Xで「独り身でもなさそうな”貴方”」と書いた理由にあたる部分でもある。ここからどろどろ人間関係の話が出てくるので、苦手な方はご注意を。
加えて、ほんのちょっと気になるご機嫌な”貴方”の様子や、悪い遊びを楽しむ”私”の持つ良心と繊細さが滲む”誰かの痛み”のパラグラフのことを書く。
やっぱり長くなったので、こちらも4パートに分けている。
○”休日の匂い”と”追憶してる”から探る2人の経緯
さて、”休日の匂い”という言葉、素直に受け取れば「休日の”貴方”の様子」ということになり、野暮を承知でもう少し踏み込んで書くと、
「”私”とは【別の人】と過ごす時間における、”私”に見せるのとは別の顔をした”貴方”を想像させる仕草や言動=【別の人】の存在を感じさせる貴方の動作」だと思っている。
この【別の人】、つまりは”貴方”にとって”私”以上に大切な存在(本命の恋人か、家庭)なんだろうなと思っていて、だから少なくとも”貴方”は独り身じゃないんだろうなと想像している。でなければ色めいた仲の”私”に、わざわざ隠そうとする理由がない。
(あくまで個人的な人生経験からの勝手な想像でしかないけれど、この、本人が隠したくても隠せない、おそらく無意識にしてしまう類の仕草や言動、特に育児を経験しているとずっと抜けなくなったりする人もいるなあ…幼い子供向けの声掛けの癖とか…というようなことを、ついつい思い浮かべてしまったりする。
もしも”貴方”に本命の恋人だけでなく、すでに子供までいるとしたら、これが初めてではない”私”もそれを承知で”貴方”と再度関係を結んでいるわけなので、なんというか2人の業はどんどん深まる一方で、ひとり勝手に想像しているだけなのに、なんかちょっと動揺してしまう。)
次に”追憶してる”という言葉。当初は「少し前に起きた出来事を思い返す」くらいの、ふわっとした受け止め方をしていたのだけど、”追憶”という言葉をよくよく調べてみると、
とあり、すでに終わった遠い過去の出来事に対して使用するのが一般的だということを今さら知った(不勉強ですみません)。
とすると、ここで”私”が”追憶してる”対象である”休日の匂い”は、遠く過ぎ去った過去の出来事で、今現在のことではないということになる。
同時に、過去の出来事として”私”が今、”追憶”できているということは、かつて”貴方”が【別の人】と日常生活を送っていた期間(≒1度目の破滅を迎えるまでの間)にすでに”貴方”と”私”は関係を持っていた、つまりやっぱり2回目なんだなということや、破滅というのも”私”との関係が原因なんだろうなということがわかる。
だから冒頭の2行は、
【別の人】との日常を”私”に隠そうとしていた1回目の時点での”貴方”の様子を、2回目の今、
「そういえば1回目の時には、【別の人】と過ごす”貴方”の様子を、”私”に感じさせないように隠そうとしていたな(まあ、ばればれだったけど)」
といった感じで”私”が”思い返しているのではないか、とも想像することができる。
ということで、2人のこれまでの(辿ったかもしれない)顛末を時系列で整理すると、こんな感じになるのではと思っている。
1.”貴方”が【別の人】と付き合う
2.”貴方”が【別の人】と付き合いながらも”私”と関係を持つ(1回目)
”貴方”が”私”に【別の人】の気配(=”休日の匂い”)を隠そうとする。
3.”貴方”が1度目の破滅を迎える
(おそらくこのタイミングで”私”とは1度お別れしている?)
4.”貴方”が再び”私”と関係を持つ(2回目)☜ここが1番の出だし
(歌詞をふまえると、”貴方”と【別の人】の関係はまだ継続している?)
5.”土曜日の今”、”私”は「2」の時の”貴方”の様子を”追憶”している☜ここが2番の出だし
自分で書きだしておきながら、こうしてはっきり文章の形にすると、理性ではどうにもならない恋愛感情の話だからこうなってしまったからには仕方ないのかなという気持ちと、考えれば考えるほど増す、2人の不実さへの苦い気持ちとがまぜこぜで押し寄せてきて、ずいぶんヘビーな印象に変わるなと思った(余計なことをしてすみません)。
でもこの歌では、それを冒頭2行の短さでふんわり香る程度にまとめていて、しかもリズミカルで格好良い曲調に乗せているので、聞き手が負担なく楽しめるエンターテイメントにしているところがすごいと思う。
さながら苦味が効いていて喉越しの良い、冷えたビールのよう。程よく苦さの残る歌詞と聞いていて気持ちの良い曲調、どちらか片方だけでは成立しない独特の楽しさを特に感じるのがこの部分で、フィクションならではの、すごく贅沢な楽しみ方をさせてもらっている気持ちになる。
○なんだか気になる機嫌の良い”貴方”のこと(→詳しくはおまけで)
”子供みたいに”という表現は、1番の”大人の秘密”を受けた対の言葉なんだろうなと思いつつ、これまでの複雑な過去を追憶する”私”のそばで、ご機嫌な時にはじゃれついてくる、”貴方”の勝手で無邪気なチャーミングさが伝わってくる。
その一方で、冒頭ではためらう姿勢を見せていた”貴方”が、なんだか急にすごく前向きな態度に変わったような気もして、その切り替えの早さが個人的にほんのちょっと引っかかり、アルバムを聞き返しながら考えているうちに、「…あ、もしかしてこういう可能性もある?(そう考えると自分の中では自然かも)」というアイディアを思いついてしまった。
そちらについては、今ここで触れると話がとっちらかってしまって収集がつかなくなるので、一番最後に、おまけ的にそっと書いておこうと思う。馴染みのない方には、もしかするとエキセントリックに思える内容かもしれない。(どちらかというと「こう考えてみるとまた違う魅力が見えてきて面白いと思うんだけどな…」という類の、妄想寄りなifの仮説。)
○悪い”私”に潜む良心と繊細さ、生きづらさが滲む”誰かの痛み”のパラグラフ
”誰かの痛み 気にするほど””偽善者じゃない”という言葉は、そもそも他人の痛みを理解したり、想像したりする感覚を持つ人でないと出ない言葉だと思っていて、そこから、思うままに振舞う”私”にも、”誰かの痛み”を”気にする”感覚=良心自体は存在する(他人の痛みに無痛覚の、いわゆるサイコパス的な人ではない)のだなということがわかる。
さらに、誰かを傷つけることが前提の不実な遊びに興じている以上、「私のせいで、傷ついている人がいますよね…でもやめられなくて…(私も被害者なんです)」といったような、責任を逃れるためだけの卑屈な言い訳はしないという、大人の遊びに手を染めるのなら最低限持っていてほしい責任感と矜持も感じ取れるところが良い。”私”、責任転嫁しない人なんだな、と感じる。
次の”傷付かない人など いないのよ”という言葉は、
「こういう複雑な関係でなくても、そもそも恋愛のような、自分と異なる他人とのコミュニケーションの場において傷つかない人なんていないでしょ。だから”貴方”との関係で傷つく他人のことなんて、いちいち気にしていられない。」
という一種の開き直りのようにも思えるけれど、個人的にはなんとなく、
「清く正しく生きようが、享楽に耽り破滅的に生きようが、どうせ何をしても、生きていくためには自他ともに傷つくことを避けられない。程度の差はあれ、人間、誰しもそうでしょ?(なんでそうなってしまうのか、納得はしていないけれど)」
という、”私”の諦観とちょっとした悔しさを含む繊細な気持ちがにじみ出ているような気がする。きっとこの言葉をつぶやく時の私は、隙のない表情の裏で、人知れず奥歯をぐっと嚙みしめてたりするんじゃないかな、などと、つい想像してしまう。
やっていることは浮世離れしていて飄々としているけれど、ひょっとして、ひっそりと生きづらさを抱えているのかもしれないとか、いわゆる世渡り上手な人ではないのかも(でなければ1回目の時にうまくやっている気もするし)と想像できる余地があって、現世、楽しいけどままならないことも多しと思うこともある私としては、なんだかちょっと親近感を覚えてしまう。
この曲に限らず、キノコホテルの歌詞は、一見、他人に向けた言葉のようでいて、実は歌詞中の私にも向けられたものなんじゃないかと感じられるところがあり、自分ごと他人の欺瞞や狡猾さを切り捌く思い切りの良さと激しさ、痛みへの覚悟が見えるのが気持ちよくて、そこがなんとも魅力的でいいなあと常々思っている。
4.転がり落ちる勢いが楽しく、結末がどうなるかわからない歌の終わり
2番のサビ、相変わらず聞いていて気持ちの良いメロディなのに、歌詞は出だしからずっと蠱惑的で、なんだかまたもや「きゃー!!!!!」と叫び出したい気分になってしまう。
何がどうなってどうしているのか、と想像する余地が無限に湧く言葉の並びなので、聞く人それぞれに全然違うことを考えていそうな気がする。試される聞き手の想像力。
”破滅するなら堕ちるとこまで””蹴り捨てた明日 道理の世界よ”とあるので、この先も、何もかも破綻するまで関係を続ける気なんだなということが伝わってくる。
”二股に分かれてぷつりと切れた”の”二股”という言葉も意味深で、”私”と”貴方”の関係や、”貴方”と【別の人】の関係の行く末を暗示しているんじゃないかと、よせばいいのについつい考えてしまう。
”感情線は此処で終わり”の部分は、感情線って手相のことだろうなと思いつつ、自分はどんな風だったっけ、と手相占いの知識もないのに、掌を眺めてみたくなったりもする。
ちなみに感情線とは、
のこと。
そもそも感情線が終点で二股に分かれる手相の持ち主ってどういう性格の人だとされているんだろうと、興味本位でざっとこちらのサイトで調べてみたら、鑑定するのはかなり複雑で、この情報だけでは一概に言えないということがわかった。
どうやら、線の長短、線が曲線か直線か、分かれた先が上向きか下向きか、どの指の根元まで伸びているか、切れた先が別の線につながっているかどうかなど、条件によってかなり細かく診断が分かれる様子。
そうなると、”私”の感情線、いったいどんな形をしてるんだろうと、なんだかますます気になってきてしまう。
さらに言えば、手相は年を追うごとにどんどん変わっていくものなので、今”ぷつりと”切れて”此処で終わり”だったとしても、そのままなのか、それともこの先どこかにつながるのかは、誰にもわからないし、もしかしたら別の線があらわれて思いもかけない結果になる可能性もあるかもしれないなとか、なんだかとりとめもなくいろいろ考えてしまう。
最後に手相に関する言葉が出てくることで、将来どうなるかわからない手相の持つ不確定さと、”まだ逃さない”と言う”私”と”貴方”のこの先どうなるかわからない関係性が重ね合わせられているように感じられるところも味わい深い歌詞だなと思う。
歌詞を見ながら聞いていると、最後の最後まで、聞いていても見ていても考える余地のある言葉選びなので、耳も目も頭もずっと忙しくてしあわせだし、もちろん、特に何も考えずにただただ音の流れに身をゆだねて聞くのもものすごく楽しいしで、この2つの魅力を両立させている支配人はやっぱりすごいなと思う。
ひとまずのおしまい
ということで、キノコホテルの「ヌード」の感想文、おわり。
文中ではわかりやすさのために2人の関係は2回目、と書いたけれど、実際は2回目以上、というのが正しい表現なんだろうなと思っていて、いったいこれが何回目の関係なんだろうと考えはじめると、さらに闇が深まるばかりという罠。フィクションでよかったなと心から思う。
個人的には1月初めからひっそりと頭の片隅を占めていた考え事を文章にできてとりあえずよかった。(その結果、ひたすら長文になってしまっているので、読んでいただいた方のご負担を思うと申し訳ない気持ちもありますが…)
もう少しだけつきあってもいいよという方は、一息ついた後、最後のおまけもさらっと読んでいただけるとうれしいです。
おまけ
さて、2番サビ前、ご機嫌な”貴方”へのちょっとした違和感から思いついた、こう考えることもできるかもしれないという話を、最後に。
冒頭で戸惑い、言い訳を重ねて体裁を気にしている雰囲気があった割には、その後すぐご機嫌になる感情の切り替えの早さと、”子供みたいに 腕に絡みつく”という自分の感情に忠実なかわいらしさが、自分の中ではなんとなく一致しなくて、でもまあそういう場合もあるのかなと考えながら、同じアルバムに収録されている「女と女は回転木馬」を聞いている最中に、ふと、
「…”貴方”が”私”と同性の、女性という可能性もありうるのか」
と思った。
(私に関しては冒頭でドレスを投げているので、女性と考える方が自然かなという気がするけれど、貴方の場合、言葉の定義的には男性・女性、どちらにも使えるので、歌詞としてはどちらでも解釈できると思っている。)
もしも、すでに異性の恋人がいる”貴方”が、かつてそういう仲になった”私”と再度出会って恋に落ちてしまった歌なのだとしたら、と考えて最初から歌を聞いてみると、1つ1つの言葉の感触が全然違ったものになり、その奥深さにさらに慄いてしまった。なんていうか言葉の切れ味が増して、びりびりとしびれてしまう。その前提で曲を聞いた後、この感想文を読み返してもらうと、また違う面白さを感じてもらえるかもしれない。
ご興味のある方はぜひお試しくださいませ。